■ 三好義継 ■


(?〜1573)

生年不詳。戦国時代、数多く名前をもった武将が多いが、義継の名も義堅、義維、義次などの記録がある。

義継は三好長慶の弟、十河一存の子で長慶の養子となった。
長慶の子・義興は、松永久秀が義興の人に秀れた才を、自分のためにならぬ毒殺したと言われ、あとを継いだ義継は幼かったため、三好3人衆の長逸、政康、岩成友通が補佐した。
が、長慶が死ぬと、三人衆と松永久秀は、当主が幼いのを良い事に権力をもっぱらにし、永禄8年(1565)5月、義継が将軍・足利義輝より偏諱・官位を賜った直後に、室町に義輝を襲い、これを殺した。

永禄11年(1568)、織田信長が将軍義昭を擁して上洛すると、三好一党は信長に降ったので、信長は義継を河内の高屋城に封じた。まもなく信長と将軍義昭が不和になり、義昭が追われると、義継はその妻が義昭の妹だった事から信長に反抗した。

天正元年(1573)11月16日、信長の部将・佐久間信盛の兵に若江城を攻められ、義継の老臣・多羅尾(右近)、池田(丹後守)らは信長に通じ、義継は自刃した。