■ 三好長慶 ■


(1523〜1564)

三好氏の祖は清和源氏・小笠原氏で、義長の代に阿波国三好郡に住み、三好氏と称する。
室町時代初期に、守護・細川氏の被官となり、細川家での地位を確立していく。
三好氏が畿内に進出するきっかけは応仁の乱で、主家の細川氏・本家の勝元を東軍の大将として支援して以後、之長・長秀・元長・長慶・義継の五代、約百年にわたり畿内で影響力を行使する。

長慶は、大永2年(1522)、阿波大西城に筑前守長基(元長)の長子として生まれる。幼名は千熊丸。
天文元年(1532)、父の死によって10歳で家を継ぎ、細川晴元の執事となり、のち長慶と改める。

はじめは主君の管領・細川晴元と、同族の三好宗三(政長)らを援けたが、長慶の代には足利将軍家、管領・細川氏の権威が衰えており、天文8年(1539)、長慶が幕府直轄領の河内17ヶ所を要求しても許されなかったのをきっかけに、武力行使をもって摂津半国の守護代となると、細川氏綱を擁して細川晴元とも戦い、天文18年(1549)、晴元を追放し宗三も殺して、事実上、幕府内での実力者にのしあがって、その地位を確かなものとした。

天文21年(1552)、細川氏綱を管領職につかせ、幕府の実権を握るが、身分はいまだ陪臣であったため、幕府に要求して将軍・義輝の御供衆(側近)となる。そうした三好氏の伸張を快く思わない義輝や晴元と不和となり、義輝と晴元が長慶を討つ兵を上げ、これと戦うが間もなく和解、松永久秀を京都所司代とした。

その後も勢力をひろげ、山城・摂津・丹波・和泉・淡路・阿波・讃岐・播磨などを版図とする、事実上の三好政権を樹立し、全盛期を迎える。

以後、義輝とは和戦を繰り返すも、六角・畠山連合軍に敗れ、京都を退去。また一時、盛り返すが、家老・松永久秀が黒幕とも言われる一族内紛が続出し、結果として松永久秀の台頭を許す。

永禄6年(1563)8月、子の義興が死亡し(松永久秀に毒殺されたとも)、長慶は弟の十河一存の子・義継を養子としたが、政務をおこたり久秀の意のままになる。

長慶もまた戦国の武将としては権謀の人で、下克上で成り上がった者が、次の成り上がり者に取って代られたとは言えるが、手段を選ばず邪魔者を除く反面、境に別邸を構え、和歌をたしなみ、連歌の会を開き、茶の湯など好み、キリスト教にも関心があり、宣教師に不況を許し、家臣にも帰依する者が多かった。

永禄7年(1564)7月、河内飯森山の居城で病死。43歳。