■ 松浦鎮信 ■


(1549〜1614)

天文18年(1549)、肥前松浦城主・隆信の子として生まれた。
天正元年(1573)には信長と通じ、同14年(1586)、大村純忠、有田盛義らが早岐の境(佐世保)を越えて攻め込んだのを父とともに敗走させた。
翌年(1587)、九州征伐では豊臣秀吉に応じて、父隆信、子久信とともに水軍を率いて肥後八代に出陣。
朝鮮の役では先鋒として海を渡り、松浦水軍の力を発揮し7年連戦した。

関ヶ原の戦いでは出兵しなかったが、徳川家康に通じていたので戦後は、肥前松浦、彼杵、壱岐などに6万3千石を安堵された。

慶長14年(1609)5月、オランダ船二艘が平戸港に入ったが、鎮信は家康の許しを得て平戸にオランダ商館を開いた。同18年(1613)には、イギリス船の入港に当たってイギリス商館も開かせた。ウィリアム・アダムスを平戸に招いた。
鎮信は、慶長19年(1614)5月26日、66歳で平戸に没したが、貿易への尽力によって、死後の寛永18年(1641)、オランダ商館が長崎出島に移るまで平戸の城下を栄えさせた。