■ 松永久秀 ■


(1510?〜1577)

下剋上の代表的人物らしく、その出自は不明で、出身地にしても山城国の乙訓郡、あるいは摂津国の嶋上郡など諸説あるが、一説には、永正7年(1510)、阿波に生まれ、享禄2年(1529)に細川氏の執事・三好長慶に祐筆(秘書)として仕えたと言われ、弾正と称したのもその頃からという。

初めて史料に登場するのは、天文11年(1542)、細川氏に叛いた木沢長政に大和の筒井氏が加担したため、久秀がその討伐に、大和南山城に進駐した事件である。

天文18年(1549)、長慶とともに京に入る。
長慶が将軍・足利義輝、管領・細川晴元を追放し、事実上の三好政権を樹立すると、摂津滝山城主となる。
その後、大和方面の攻略のため、大和信貴山城主に配置換えとなり、永禄3年(1560)、大和に信貴山城を築城。弾正小弼に任官、幕府御供衆にも列せられた。三好氏の部下でありながら、形式上は幕府の直臣ともなったわけで、松永弾正の悪名の由来の一つとも言われる。

三好氏に代わるため、永禄6年(1563)、長慶の嫡子義興を毒殺したとも、同7年(1564)、主人三好長慶が病死すると、長慶の毒殺さえ噂されながらも、久秀の勢威は主家を上回り、幼い義継が三好の家督をつぐと、これをあやつり、三好三人衆と共謀して、同8年(1565)、二条城を攻め、将軍・足利義輝を自殺させ(あるいは暗殺し)た上で、義輝の弟・覚慶(のちの義昭)を幽閉する。

同10年(1567)、多門城築城。
久秀は、戦国の武将の中でも斉藤道三とともに下克上の例にあげられる人物であるが、築城に関してなかなかの名手で、久秀の居城・信貴山城も巧妙な縄張りで、作事、普請ともに秀れ、随所に新工夫があって、後に信長が久秀の築城法を真似たとも言われる。

特に多門城では新様式の櫓を造り、後世多門とか多門櫓と称せられる基となった。多門とは単層の長屋風建物である。
また茶人および茶器などの目利きや、文化人としての素養は高かった。

が、同11年(1568)、信長が足利義昭を奉じて京に入るまでの間、久秀は三好三人衆と対立して、たびたび戦う中、奈良での市街戦では東大寺の大仏殿を焼いたのも彼と言われ、その悪名は決定的なものとなった。こうして三好三人衆や筒井順慶と抗争している中に、信長が上洛して来たわけだ。

久秀は信長にはいち早く帰順し、大和一国を安堵され、石山本願寺攻めにも従っているが、その信長にも二度叛く。一度目は信玄の死去によって瓦解。信長に降伏した。
裏切り者には惨たらしいほど徹底して厳しい信長が、なぜかこの件については許している。

二度目は天正5年(1577)、越後の上杉謙信上洛の噂を聞くや、信貴山城にもどって信長に謀叛したが、謙信上洛のあてがはずれ孤立。信貴山城で籠城の末、織田信忠の二万余の軍に城を囲まれ、同年10月10日、自刃。68歳。
この自殺は爆死とも言われており、また死の直前に「弾正星」が流れたという逸話も持つ、梟雄の名にふさわしく、反逆と謀略の生涯の閉じ方であった。