■ 前田利家 ■


(1538?〜1599)

前田氏は、尾張国海東郡前田の豪族で、利家の父・利昌の代に荒子城主になったという。

利家は利昌の四男で、天文7年(1538)ごろ、尾張荒子城で生まれた。幼名は犬千代。
幼くして側近の小姓衆として信長に仕え、14歳のとき尾張海津に初陣した。
永禄2年(1559)、利家は信長の同朋衆・十阿弥を、刀笄を盗まれたなどで斬ったため、信長に勘当され2年ほど浪々の身となったが、後に武功を立てて許される。

再び信長に仕えた時期については、翌3年(1560)と見なされ、桶狭間の戦いや、信長が斉藤竜興と戦ったときの軍功で許されたと言うが、美濃森部の合戦などで手柄を立てたようだ。
その後は信長に従って歴戦。同10年(1567)に、信長の親衛隊、黒母衣・赤母衣衆が創設されたとき、赤母衣衆に抜擢された。なお黒母衣衆には、他に佐々成政がいた。

永禄12年(1569)、信長の命で兄・利久の家督を継ぎ、荒子城主となる。
各地を転戦し、とくに長篠の合戦では、鉄砲隊を指揮して活躍。元亀元年(1570)、朝倉を討ち、つづいて姉川の戦いでも功を立てた。

天正3年(1575)、長篠の合戦を戦った前後に、柴田勝家の与力となったとも言い、越前一向一揆鎮圧からは柴田勝家の北陸方面軍に属し、上杉軍と戦うことになる。
一向一揆の鎮圧にともなう苛烈な宗教弾圧の後に同府中城主となり、同9年(1581)には、能登一国20万石を与えられ、七尾城にも入った。

信長の岐阜城時代、屋敷が秀吉と隣同士という縁もあり、松とねねの妻同士も含めて、長年、秀吉と親密な関係にあったとも言い、子のない秀吉は、利家の四女を養女としている(のちの宇喜多秀家夫人)。
天正10年(1582)、信長が光秀にたおされ、その光秀も山崎の合戦で秀吉に敗れた後も、概ね秀吉に属したが、この一時期は、織田家臣団のなかで秀吉と柴田勝家の対立が顕わになる。

翌年(1583)、勝家が織田信孝、滝川一益と結び挙兵すると、利家も勝家の配下として出陣。とは言え、主従関係ではなく、勝家も利家も信長の家臣で、信長の命で勝家を補佐していたにすぎなかったから、信長亡き後、独自に行動できるのだが、勝家とは長年、上司・部下の関係であり、秀吉との板ばさみのまま迎えたのが、賤ヶ嶽の合戦だった。秀吉は、利家のこうした律儀さに全幅の信頼を置いたと言われる。

利家は秀吉が優勢になった瞬間、一戦もせず突然、撤退する。これが柴田軍に大きな動揺をもたらし、総崩れの引き金となった。
この年(1583)、利家は尾山城(金沢城)に移っている。

以後、利家は小牧・長久手の合戦では、加賀にあって家康方の佐々成政を末森城で破っている。
同13年(1585)、加賀、能登、越中の三国、百万石の太守となった。
また小田原攻め(1590年)では、別働隊を率いて北条方の諸城を攻略し、秀吉の天下統一に大いに貢献した。

利家は、若年の頃は激しい性格だったが、晩年に近付くほど寛大仁慈の人となり、武将としては用兵の巧緻を極め、また学問を好んだ。秀吉も利家の見識を認め、何事によらず相談役とした。

秀吉は常に、利家を家康の対抗馬として牽制させ、死にのぞんで遺児・秀頼の後見人を依頼した。そのため、利家は天下をうかがう家康に睨みをきかせながら、一方で秀吉子飼いの大名の派閥対立を調整して、豊臣家の安泰をはかるという重責をになう。
秀吉の死(1598年)の直前、利家は豊臣氏の五大老の一人に任命され、官位も従二位・大納言となる。

しかし病には勝てず慶長4年(1599)3月、秀吉のあとを追うように大坂城で死去(享年62歳)。利家の死を待つかのように、豊臣家は真っ二つに割れ、関ヶ原に突入していった。

利家の嫡子・利長は、家康への抵抗の気配を見せはしたものの、比較的早くに家康に服従して加賀百万石を守ったが、二男の利政は関ヶ原で西軍に属したため改易された。
利家の家風は利長以降、前田家の基を固め、その死後も受け継がれ、加賀百万石の大封を代々伝えて明治に到っている。