■ 前田玄以 ■


(1539〜1602)

天文8年(1539)、美濃国に生まれた。斉藤季基の末といわれるが不詳。

はじめ叡山に入ったが、のちに信長の長子・織田信忠に仕えて7千石を領した。
天正10年(1582)6月、信忠が光秀に討たれると、玄以は信忠の子三法師丸とともに美濃にのがれ、三法師丸が織田家を継ぐと、これに仕えて安土城に入る。翌11年(1583)、織田信雄の命で京都所司代職に就き丹波に5万石を領し、八上城に居城した。

玄以は僧籍にあった経験があるだけに学識があり、京都奉行、寺社奉行に任じられたのもそのためであった。天正16年(1588)、秀吉の聚楽館に後陽成天皇行幸のとき、これを迎える一切の儀式を奉行した。
また外務の交渉能力にも優れていたと言われ、キリシタン対策や海外総督との遣り取りなどが上げられる。

その有職がかわれ、石田三成らとともに豊臣家五奉行の一人となり、関ヶ原の戦いで石田三成らの家康弾劾文に加わっているが、挙兵には不賛成であったことが家康に認められて、罪をまぬがれ所領を許された。
豊臣家五奉行の一人でありながら徳川家康と通じたのも、先見の明であったという。

慶長7年(1602)5月7日、病死。64歳。