■ 京極高次 ■


(1563〜1609)

京極氏は、宇田源氏の出で、元は佐々木氏である。佐々木信綱の子で、泰綱は近江南部を領し六角と称したが、泰綱の弟、氏信から出た子孫は近江北部を領し京極氏を称したのである。

京極氏は初め、屋敷が京にあり、それも京極という地名であったと言う。また、室町幕府の四職家の一つであることから、名門でもある。

高次は永禄6年(1563)、近江に生まれる。幼名は小法師。浅井氏に属していた。

浅井氏滅亡後は信長に仕え、本能寺の変では光秀に組し、羽柴秀吉の長浜城を攻めたため、秀吉が山崎合戦で光秀を討つと、身を隠した。

しかし高次の妹(姉とも?)が美貌であったので、秀吉がこれを側室の一人とし寵愛した。高次も許されて秀吉に仕えた。

九州征伐、小田原征伐を終えたころ、八幡山城の城主となり2万8千石。さらに文禄4年(1595)には、大津城、6万石。

関が原では東軍に属したため、西軍の立花宗茂らに攻められ、篭城していた大津城を開城せざるを得ず、高野山に逃れたが、妻が徳川秀忠夫人の姉であった関係で、家康から若狭に別の城を与えられ、8万5千石に出世。ここで小浜城を築城。

慶長14年(1609)、5月、小浜城にて没。47歳。