■ 黒田如水 ■

(1546〜1604)

黒田氏は宇多源氏、佐々木氏の末という。如水の祖父、重隆が播磨に住み、守護赤松氏の一族小寺家に仕え養子となったため、小寺氏を称し、目薬の販売で財を成したという。

如水は、天文15年(1546)、姫路で職高(美作守)の長子として誕生。官兵衛孝高と名乗る。法号、如水。父、職高の代にして、信長の中国征伐に際して主の御著城主、小寺政職を説き、信長の麾下に入り、毛利攻めの羽柴秀吉に協力することとなった。

天正5年(1577)、秀吉の中国征伐に参戦。翌年、茨木城主、荒木村重が信長に謀反を起こしたのを翻意させようと伊丹城に入ったが、逆に捕えられ、幽閉されて足が不自由になった。

こののち、秀吉の軍師として竹中半兵衛とともにその才能をふるい、秀吉の両兵衛と謳われた。備中高松城の水攻めを献策したことは有名。

本能寺の変に際し、毛利氏との講和を進め、秀吉の中国大返しを実現。山崎合戦でも活躍。天正15年(1587)、島津征伐には軍奉行として従軍。財部城を攻略し、のち、豊前を与えられ、中津12万石の城主となる。

天正17年(1589)、家督を嫡子、長政に譲り、如水と称す。朝鮮の役のときには肥前名護屋にあり、のち軍監として渡海した。

関ヶ原の戦いでは、父子ともに東軍に属したが、如水は中津城にいて、安岐、富米、小倉の諸城を攻め落とし、大友義統を破る。この功により筑前一国を与えられる。

また茶人、キリシタン大名としても有名で、洗礼名を、ドン・シメオン。慶長9年(1604)3月、京都、伏見で没した。59歳。