■ 九鬼嘉隆 ■


(1542〜1601)

九鬼氏は藤原北家の末といい、新宮別当行遍の孫隆真が紀伊九鬼浦に住んで九鬼氏を称した。その子隆良は志摩波切村に移ったが、その他の豪族として栄えた。

義隆は天文11年(1542)、志摩、田代城主、九鬼定隆の次男として誕生。はじめは伊勢国司北畠氏に属していたが、のちに滝川一益を頼って織田信長に仕えた。

天正2年(1574)、信長が伊勢長島の一向一揆を攻めるのに、水軍を率いて参加。軍船十数艘を撃ち破る活躍により、いわゆる九鬼水軍の武名を知らしめ、その功によって、志摩七島、摂津の野田などが与えられ、鳥羽に城を築いて本拠とした。

九鬼水軍の名をさらに高めたのが、天正9年(1581)、石山合戦。六艘の鉄の巨大戦艦を従え、本願寺を援助する毛利水軍600艘と木津川河口で激突し、打破した。

その後は秀吉に従い、四国、九州、小田原征伐に参加。朝鮮の役では、藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明などと水軍を組織して朝鮮水軍と戦い、また、朝鮮と内地との連絡および交通路の確保を主とし大活躍した。

秀吉の死後は、家康が伊勢湾の通航税徴収の特権を認めず、この怨みから、関ヶ原の戦いでは西軍に応じた。このとき義隆の子、守隆は東軍に属したため、義隆は守隆留守中の鳥羽城を攻め取った。が西軍は敗退し、守隆の忠節が認められて、九鬼家は5万石を安堵した。

しかし義隆は戦後紀州で自刃。59歳。守隆の助命嘆願が認められたにもかかわらず、この報を伝わるのが間に合わなかったため、と言われる。