■ 小西行長 ■


(?〜1600)

生年不明。堺の薬種商、小西屋寿徳(小西隆佐)の次男として京都に生まれたという。幼名、弥九郎。備前岡山の商人の養子となり、宇喜多氏に出入りし、父とともにキリシタンとなる。洗礼名、アウグスティヌス。

当初から備前の宇喜多直家につかえたともいい、また、小西屋と秀吉が古くからの知り合いであったため、中国征伐に際した秀吉が、宇喜多直家との使者として行長を使い、その才を買って家来としたとも言うが、天正8年(1580)頃から、毛利氏を攻撃中の秀吉の配下に加わっており、舟奉行に任命されている。

天正12年(1584)、秀吉か小豆島、塩飽島を与えられ、天正13年(1585)、紀州雑賀攻めでは、水軍を率いて活躍。1万石摂津守となる。

天正15年(1587)の九州征伐では食料輸送、補給をつとめ、翌16年(1588)の肥後一揆鎮圧の功により、肥後の国の半分24万石を与えられ、宇土城を構築し、居城とした。

文禄の役には先鋒として加藤清正、黒田長政とともに戦い、釜山、平壌を占領し軍功をあげたが、李舜臣ら朝鮮水軍に制海権を握られ、兵力、補給が保てず苦戦した。この折、加藤、黒田らと対立関係になったと言われている。慶長の役も渡海し、秀吉の死によって撤退。島津義弘らと殿軍をつとめた。

秀吉の死後、いわゆる武断派の加藤らと対立し、石田三成に組する。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは三成、宇喜多秀家らとともに東軍と闘ったが敗れ、敗走。伊吹山中で里人に身分を明かし、領主、竹中重門に捕われた。

このとき、行長が自刃しなかったのは、キリシタン信者だったからと言われ、これが、石田とともに文治派と称せられた所以であったかもしれない。

10月1日、石田三成、安国寺恵瓊らと京六条河原で首をはねられた。年不詳。