■ 高台院 ■


(1548〜1624)

呼び名として「おね」「ねね」などがあるが、本名は「ね」としかわからない。秀吉の手紙に「おね」と呼ばれているので、「おね」で書いていく。

天文17年(1548)、織田家家臣、木下定利の娘として、尾張朝日村に生まれる。家臣といっても下級武士の家で、生家の貧しさからか、おねは、伯母の嫁いだ浅野長勝(足軽組頭)の元に養女に出されている。

ちなみに、この浅野氏はのちの長政を養子にしており、この長政の妻がおねの妹ややである。夫婦ごと養子扱いにしたのか、どちらかを養子にしたあと二人が結婚したのかはわからない。

永禄4年(1561)、14歳のおねは、25歳の秀吉と、清洲城下の足軽長屋にて結婚。すでに秀吉は、桶狭間の合戦で勝利した織田家に仕えている。媒酌人は前田犬千代(利家)という。

夫婦生活は円満で、尾張訛りの早口で喋りあうので、喧嘩をしているようだった、と側の者には見えたという。また、あまり貧しい昔を隠すことなく侍女たちに語った、とも言われる。

永禄11年(1568)、おねは未だ岐阜にいたが、秀吉は信長に従って上洛し、明智光秀と並んで京都奉行になる。この折、秀吉は京で妾をもち、元亀3年(1572)ごろ、この妾との間に子、石松丸(秀勝)を儲けている。

ちょうど浅井氏を破り、秀吉が北近江に12万石、小谷城の主となったころで、やがて天正2年(1574)、小谷を廃し長浜に居城を持つと、ここに正室のおねを呼ぶ。

この事に対してなのか、信長は「安土築城に際し、土産を持ってきてもらった礼状」と称し、おね宛に手紙を書いて、わざわざ諭している。曰く、

「そなたの女ぶり、前に見た時よりも、十が二十ぐらい良くなった。そんな妻に藤吉郎(秀吉)が不足を申すのは言語道断であり、許せない。どこを探しても、そなたほどの女をあの禿ネズミ(秀吉)が求められるだろう。だからそなたは、陽気に考え、奥方として堂々としていればいい。焼もちをやくな。ただし、文句を言うのも女の役目だから、言うのはよい。が、夫を立てる気持ちは忘れてはならない。この手紙は藤吉郎にも見せてほしい」

譜代の家臣を頼みにしなかった信長にとって、自分が抜擢した家臣の、こんな内輪の事情まで面倒を見なくてはならなかったのか、それとも細かい事に首を突っ込みたがる性癖によるのか、何とも言えない。

この手紙と関係があるのか、天正4年(1576)10月に秀勝が亡くなると、その母は長浜城から去ったと見られ、また、秀吉には信長の四男、於継丸が養子に入り、亡くなった秀勝の名を引き継いでいる。(のち早世)

長浜時代のおねは、遠征の多い秀吉に代わって政務を代行したとも言われ、自分の縁者はもとより、秀吉の縁者を多く世話し、出世させたと言われる。

中でも、秀吉の母なかの縁者である加藤清正(虎之助)や、清正の従兄弟、福島正則らを子供のころから育て、台所で飯を食わせ、着物の用意をしてやったので、清正や正則は生涯おねを慕った、と言われている。

本能寺の変の時は、光秀に味方した京極高次によって攻撃を受け、長浜城を脱出した。

秀吉が山崎合戦、賤ヶ岳合戦、北ノ庄攻めを勝ち進み大坂城を作ると、おねも天下人の正室として、以後は北政所と呼ばれるようになる。

秀吉の20人近い側室の中で、やがて、唯一秀吉の子を二人まで産んだ淀殿との対立は、よく逸話にされる。例えば、北政所が愛でた黒百合を、淀殿が無造作に扱ったと言う逸話は有名であるが、これらは全て事実ではない。

おそらく、北政所を慕う清正や正則をはじめ、浅野長政、池田輝政などが尾張出身の武断派であるのに対し、石田三成が、淀殿と同じ近江を出身とする点、増田長盛、長束正家、小西行長などの、いわゆる官僚系の武将たちが、朝鮮征伐で、武断派武将たちと対立した点などを、閨閥争いに端を発したように描かれるためであろう。

慶長3年(1598)8月18日、秀吉は淀殿の生んだ秀頼の行く末を案じつつ伏見城に没した。このとき淀殿が五大老を伴い、大坂城西の丸に入ったのに対し、北政所は大坂城を出て落飾した。以後、高台院と呼ぶ。

これも又、淀殿が権勢をほしいままにし、北政所を追い出した、と描かれがちだが、淀殿は秀吉の遺言に従ったのであり、むしろ正室として遇されてきたおねは、身の振り方を自由に選べたのであろう。

秀吉が死ぬと、家康は、秀吉の廟所を参詣する帰りに、よく高台院を見舞っている。また高台院が、関ヶ原に先だって、小早川秀秋(高台院の弟の子)を家康に味方するよう説いた事から、家康と高台院の密約もよく取り沙汰されるところではある。

関ヶ原のあと、元和元年(1615)、大坂落城によって、淀殿と秀頼が没したあとも、高台院は徳川家の庇護を受け、河内1万3千石の所領をもらって余生を送った。1万石以上は大名であるから、破格の待遇と言って良いだろう。

高台院はこれを元手に、京都、高台寺を普請。同寺に寛永元年(1624)に没した。