■ 小早川秀秋 ■


(1582〜1602)

天正10年(1582)、生まれる。豊臣秀吉の夫人高台院の弟、木下家定の五男であったが、はじめ、秀吉の養子で羽柴秀俊と名乗り、丹波亀山の10万石の領主となる。

文禄2年(1593)、秀吉に実子秀頼が誕生し、小早川隆景の養子に出され、慶長2年(1957)、隆景の他界後、家を継いだ。

秀秋は生来怜悧ではなかったと伝えられるが、その秀秋を小早川隆景が養子としたについては、秀吉が秀秋を毛利輝元の養子として毛利家を継がせたい意向のあるのを察知し、本家を守るため小早川家の養子として迎えたという。

朝鮮の役に出陣し、帰朝後、秀吉から全軍総帥としての軽率な態度について責められ、家康のとりなしで事なきを得たものの、筑前33余万石を召し上げられ、越前、北之庄15万石に減封されたところで、ちょうど秀吉が亡くなったので、筑前にとどまった。

関ヶ原の戦いでは、はじめ石田三成派に属し、西軍に身を置いて、要衝の地、松尾山に1万2千の大軍で陣取った。戦闘半ばに東軍に味方し、大谷吉継の陣に襲いかかり、西軍の敗因をつくった。このとき、なかなか去就を明らかにせぬので、家康が松尾山に向けて鉄砲の威嚇射撃を行った、という。

西軍が敗退すると、三成の居城佐和山城を攻め落とし、家康からこの功を高く評されて、宇喜多氏の旧領備前、備中、美作51万石を与えられ、岡山に居城を置いた。

慶長7年(1602)、岡山で没した。21歳。関ヶ原での裏切りに悩みながらの悶死であった、などとも言われている。正室の毛利輝元養女との間には子がなく、名門、小早川家は断絶した。