■ 吉川広家 ■


(1561〜1625)

永禄4年(1561)、吉川元春の三男として誕生。毛利元就の孫にあたる。主筋、毛利輝元とは従兄弟。

吉川家の家督は、元春の嫡子、元長が継いだが、元長は九州攻めの戦陣で病死。弟の広家が跡を引き継いだ。

天正15年(1587)、秀吉の命で豊前、肥後の一揆を鎮圧。同19年(1591)には、出雲富田12万石の城主。朝鮮の役でも碧蹄館(ペクチェグァン)の戦いなどに奮戦。

広家は、関が原における暗躍でその名を知られている。本家であり従兄弟の毛利輝元は西軍の盟主に祭り上げられ、広家はこれを苦慮の末、家康とひそかに内通。関が原においては、南宮山に陣取ったまま毛利軍参戦を阻止。東軍の勝利に間接的に貢献したとして認められ、毛利氏改易から減封に食い止めることに成功した。

毛利氏、周防長門36万石のうち、周防岩国3万6千石の初代藩主となり、寛永2年(1625)9月、玖珂郡の通津で病没。