■ 吉川元春 ■


(1530〜1586)

享禄3年(1530)、毛利元就の次男として誕生。のちに吉川氏に養子。吉川氏を継ぐ。

吉川氏は、毛利氏と同様、大江氏の庶流で安芸国山県郡一帯をおさめていたが、毛利元就の妻が国経の娘であった関係から、元就は、次男元春を興経の養子とし、天文16年(1547)、元春は日野山城主となる。

父元就は、その後、同19年(1550)、興経とその子、千法師を謀殺、これにより元春が継いだ吉川氏は、家来を含め、完全に毛利氏に吸収された事となる。

元春は、元就とともに出雲尼子氏、豊後大友氏との戦いに従軍し、猛将なるを発揮。元就亡き後は、甥で毛利家を継いだ輝元を盛り立て、弟、小早川隆景(同じく小早川氏に養子)が、主に山陽方面の軍事を担当するのに対し、元春は山陰方面攻略を任され、ともに「毛利両川」と謳われた。

秀吉が中国を攻略したときには、隆景とともに防衛によくつとめ、因幡鳥取城、備中高松城の救援に赴くが、秀吉との決戦にはいたらず、信長横死の直後も、秀吉との講和に反対して一時引退。

しかしその後、秀吉の九州征伐には、秀吉に従軍。戦陣の中、小倉城で病没。