■ 加藤清正 ■
(1562〜1611)

永禄5年(1562)、尾張中村生まれ。加藤清忠の子。幼名、虎之助。母が秀吉の生母の従姉妹(伯母とも)にあたるため、三歳で父を失ったあと秀吉に預けられ、秀吉とその正室ねねに養育を受けた、と言われる。

初陣は二十歳。その後、秀吉に従って出陣を繰り返し、都度、戦功を立て、賤ヶ岳の合戦では、七本槍の筆頭に上げられる。

天正13年(1585)、秀吉の関白就任に伴い、従五位下、主計頭。15年(1587)、九州征伐。翌年(1588)、佐々成政改易後、隈本(熊本)城入城。肥後半国、25万石。

文禄元年(1592)、朝鮮出兵にともない渡海。京城を落し、会寧で朝鮮国の王子二人を捕らえ、”鬼将軍”と異名を取り、恐れられる。慶長の役でも蔚山の戦いで武勇を高める一方、陣中において石田三成と不和。国内に召還される。これ以来、三成派と対立。福島正則らとともに反三成派の筆頭となる。

秀吉の死後は、三成らとの溝を埋めようもなく、前田利家の死の直後、七将とはかり、三成を襲撃するが未遂。五奉行から失脚させられる。

関が原においては家康を支持して東軍に属し、九州にあって西軍の将、小西行長の各城を落す。戦功により、肥後51万5千石。従五位上、肥後守に就任。

しかし清正は、家康を支持する一方で終生豊臣家への忠誠を忘れなかった。家康が江戸幕府をひらくと、これに臣従しつつ、豊臣と徳川の関係調整に奔走し、家康と秀頼の会見を実現させるなど、秀頼との関係を断たずに尽くした。

清正は城造りの名人として知られ、慶長初年ごろから熊本城を築城したが、これは天下の名城として名高く、朝鮮出兵のおり、半島風の技術を学び持ち帰ったという説もあって、石垣の構築に清正独特の工夫がこめられている。名古屋城天守台も清正の構築である。

慶長16年(1611)、6月24日急死。50歳。毒殺の噂もあるほど、豊臣家に衝撃が走った。