■ 片桐且元 ■


(1556〜1615)

弘治2年(1556)、近江に生まれる。助作、市正(いちのしょう)などとも呼ばれる。

幼い頃から秀吉に仕え、天正11年(1583)、賤ヶ岳合戦にて戦功を立てたため、加藤清正、福島正則とともに、七本槍と称される。のち1万石。永禄4年(1561)、茨木城主。秀吉死後、徳川氏と豊臣氏の和合をはかり、逆に板挟みに遭う。且元には、忠臣説と不忠説がつきまとう。

関が原以後、家康の命により、秀頼補佐を務め、豊臣氏の所領、財政、ともに預かった。慶長19年(1614)、方広寺、大仏供養の鐘銘事件で、駿府の家康のもとに出向き弁明したが、不首尾に終わり、返って大坂方から家康内通を疑われたため、身の危険を感じ、大坂城退去に及ぶ。のち事実上、家康麾下に入る。

元和元年(1615)大坂冬の陣では、家康に従ってともに大阪城を攻め、一時和睦がなると、再び豊臣と徳川の調停に尽力するも、再度、夏の陣が勃発した折には病床に臥していたと言う。

同年5月28日、大坂落城を聞くと、駿府において自刃。60歳。一説に、京で病死とも言われる。