■ 春日局 ■


(1579〜1643)

三代将軍の乳母として名高い春日局は、その名をお福という。天正7年(1579)8月9日、荻野氏の黒井城を陥落させた明智光秀は、家来、斎藤利三にここを預け、お福はこの地で、利三の三女として誕生。母の名はお安。

生まれた場所は不明であるが、稲葉家文書には、黒井城とあり、城下に、お福が腰をかけたという「お福石」(斎藤屋敷=現、興禅寺境内)をはじめ、誕生伝説が多くある。

父、利三は元々美濃の出身であり、はじめは三好長慶のもとにあったとも言われるが、結婚のころには稲葉一鉄のもとにあり、利三の母は、光秀の妹と言われている。

また、母、お安は後妻とされており、おそらく一鉄に養育されたのだろう。利三の先妻は斎藤道三の妹とも言う。お安は、稲葉一鉄の兄の娘と言われており、お安の父は、祖父通則や他の兄弟たちと大永5年(1525)の、近江浅井氏との戦いで戦死したらしい。

お福が4歳のころ、丹波亀山城にいたが、本能寺の変となり、光秀が山崎合戦で秀吉に敗れると、亀山城下も高山右近らに攻撃を受け、お福は母とともに、一時京に逃げた。ここで捕らわれた父、利三の処刑を目撃したと言われる。

その後、延暦寺に住んだとか、海北友松、東陽院長盛らに援助を受けたとか、利三の妹が嫁いだ土佐高知へ逃れた、などと言われている。

やがて、稲葉一鉄の孫娘が死去したため、一鉄がこれと娶わせて養子に迎えていた稲葉正成の後妻の座におさまる。夫、正成は、秀吉の養子、小早川秀秋の家老として丹波亀山城に奉公。

関が原合戦では、正成は主君秀秋に家康への内応をすすめ、東軍勝利を導き出すが、秀秋は直後に即死。正成は浪人となり、家族は流浪にさらされた。

一説によると、このとき正成が妾を持ち、腹を立てたお福は妾を斬り殺して正成に離縁状を叩きつけ、京に出、徳川秀忠の子、家光誕生および乳母募集の高札を見て応募した、という。これには海北友松らの推薦があったとも、小早川家断絶に良心の呵責を覚えた家康の配慮とも言われている。

家康、あるいは家康の周囲が、お福を乳母に取り立てた背景には、没落した名家の出である事があったのではないかと思われる。

家康は、一般的には、女性を蔑視したかのように見られがちだが、本人の能力いかんによっては、女性であっても、外交官や教育係として採用した面もあり、子を産まぬ(あるいは子が早世)側室たちの中にも、重要な任務を帯びて活躍した女性は多い。

家康の側室にお梶(のちの英勝院)と呼ばれた女性も、元は太田家の出であり、甥(資宗)を家光の学友とした関係もあって、ことのほか家光と縁が深かったと言われる。また、秀吉によって改易させられた宇都宮国綱の妻(佐竹氏出身)などは、入内した東福門院和子(秀忠の娘)の付け人として起用されている。

またお福自身も、自分の子、稲葉正勝を家光側近に取り立てられており、名家ゆえに身に付けた教養を、没落したがゆえに葬り去られることを、家康が残念に思ったとしても不思議はない。また、天下を狙うがゆえに、こうした人材を使って、禁裏などに働きかけよううとした家康の姿が、裏に見え隠れしないでもない。

見事、未来の将軍、竹千代(のちの三代将軍、家光)の乳母となったお福は、竹千代を懸命に養育したが、竹千代の生母、お江与とはそりが合わなかったとも言われ、これが後年、家光とお江与が自ら育てた秀忠の次男、忠長との確執につながったという話は、あまりにも有名である。

忠長は才気にあふれ、秀忠、お江与夫婦をはじめ、徳川家家臣も有力諸大名たちも、これを次期将軍とみなしていた中、危機感を強めたお福は、江戸城を抜け出し、自ら駿府城の家康に直訴に及んだ。家康は江戸にのぼり、家光を次期将軍として遇し、片や忠長には家来扱いをしたために、鶴の一声で将軍職継承は家光に決定。

家光はこれにより、お福、すなわち春日局を、生母以上に遇したという。また、のちに弟忠長に謀反の疑いありとして、領地召し上げの上、切腹に追いやった。

当時、いかに春日局の権勢が大きかったかは、後水尾天皇に退位を迫らせようとした家康の使者となり、京に乗り込んだことでもわかろう。

家光には大奥にまつわる逸話が多い。若い頃は男色にかまけて女性に興味を覚えなかったため、春日局は女性選びに心を配り、並みの女性ではならぬとなると、尼僧や身分の低い女性を家光に勧め、嫡子誕生に苦心したと言う。

春日局自身にも逸話があり、外出して城の門限に遅れたとき、規則を守ることを手本とさせねばならぬとし、門前で一夜を明かした。

また、家光が疱瘡になったとき、春日局は生涯薬を飲まない誓いを立て、山王社と東照宮に詣で、水の入った桶を頭に乗せ、月が出るまで祈ったという。

その後、家光は快癒したが、逆に春日局が病を得たのに薬を飲まない事を知ると、家光は手ずから薬を飲ませようとしたが、春日局は飲んだふりをして、密かに吐き出して誓いを守った、と言う。

春日局と、その同僚官僚とも言うべき英勝院は、天海を深く信頼し、始終、城内の吉凶を占わせたり、方位の守り札を依頼したり、家光の側室の安産祈願であるとか、子の誕生の名付けを頼んだなどと言われている。

いずれも、仏教への深い帰依が伺われる逸話である。