■ 石田三成 ■


(1560〜1600)

石田氏は元は近江源氏佐々木氏の被官、三成の生まれた頃は京極氏被官の家柄であったという。三成の父は石田藤佐衛門正勝(のち隠岐守正継)、兄は正純といい木工頭であった。

永禄3年(1560)、近江国(酒田郡)石田村に生まれた。幼名を佐吉。近在の寺に預けられていた所、15歳(10歳とも言う)のとき、当時、浅井氏滅亡後の長浜城主となった秀吉が鷹狩りの帰途、その寺に立ち寄り、応対した三成の才智を認め側近に召し出した、と伝えられる。

その後は秀吉に従って各地を転戦。秀吉の中国征伐のころには、貿易の取り締まりに当たり、賤ヶ嶽の合戦では、秀吉軍の岐阜から賤ヶ嶽への沿道の整備、補給面を担当して機動戦を有利に導く。

天正13年(1585)、秀吉が関白になると、従五位下、冶部少輔に任官される。翌14年(1586)、堺奉行。

九州征伐には兵站部門を担当して糧食の輸送を指揮。貿易港、博多の復興にもつくした。しかし小田原役では、上州館林、武州忍城を攻め、忍城では秀吉の水攻めをまねたものの失敗。他の大名諸将が次々と北条氏の城を落城させた中、小田原開城後にやっと落した。三成の戦下手の評価はこの辺から来ているものと思われる。

しかし彼の才能は、内政・経済の面で発揮され、太閤検地には代官として美濃、薩摩、大隈などにおもむき、秀吉の重要政策には常に参画。豊臣政権の基盤づくりに貢献した。朝鮮出兵でも、船奉行として兵員輸送にあたるとともに、軍監として渡海して戦った。

しかし小西行長とともに和平工作にあたった三成は、作戦面で武断派武将と対立。元々秀吉の申次を務めていた上に、加藤清正などを統制違反として秀吉に報告した仇で、多くの大名から恨みを買う結果を招いた。

文禄4年(1595)、近江佐和山城に移り、20万石の大名ながらも五奉行の一人となって、豊臣氏直轄領の代官を兼ねた。秀吉の死後、150万石の徳川家康の勢力を押えようと対抗するに至り、慶長5年(1600)、会津の上杉景勝と組み兵を挙げ、やがて関ヶ原の合戦となる。

関ヶ原では、盟友・大谷吉継の活躍に負うところは大きかったものの、三成を上回る地位、石高の大名を動かすことに苦心したあげく、小早川秀秋の裏切りを押さえられず、敗戦。逃亡途中の伊吹山中で捕えられ、同年、10月1日、京六条河原で斬られた。41歳。