■ 生駒親正 ■


(1536〜1584)

大永6年(1526)、美濃土田に生駒親重の子として生まれた。幼名を甚介。

永禄9年(1566)、織田信長にはじめて仕え、斎藤氏攻めのとき、秀吉とともに墨俣の城を守った。ついで天正3年(1575)、長篠の戦い、翌年の本願寺攻め、同6年(1578)、美作七条攻めなどに功があった。山崎の戦い、小牧の戦いなどに出陣し、天正15年(1587)、九州征伐ののち、讃岐に6万石を領し、翌年、高松城を築いて移った。

朝鮮の役では、各地を転戦したのち、帰国して大坂城の留守役になったが、その後、病床に臥し、関ヶ原の戦いには子一正を東軍に出陣させ軍功あり、17万石に加増された。慶長8年(1603)、2月13日、高松城で没。78歳。

生駒親正は築城に関しても名手といわれ、彼が築いた高松城は海辺を巧みに利用した水城(海城)であり、水軍の基地としても秀れた名城であった。高松に近い讃岐丸亀城の縄張りもまた親正のものという。