■ 池田信輝 ■


(1536〜1584)

出身は美濃国池田郡で、父恒利の代に織田信秀に仕えた。

天文5年(1536)生まれ。紀伊守恒利の子として育てられたが、母が信長の乳母だった関係で、年少より信長の側近となる。一説に信長の乳母の子で父は織田信秀ともいう。

またの名を恒興と名乗り、のち紀伊守、入道して勝入と称した。信輝の名は俗説らしく古文書には見当たらないといわれるが、後世信輝の方が多く使われている。織田信秀に仕え、星崎城の戦いで武功を上げ、のち信輝と名乗ったともいう。信秀死後、信長に従い、各地に転戦。

弘治元年(1555)、尾張海津に戦い、同3年、信長の弟信行の謀反のとき、信行を討つ。つづいて桶狭間で軍功あり、元亀元年(1570)、犬山城主となる。

天正6年(1578)、荒木村重が信長に叛旗をひるがえすと、これを討伐。同8年(1580)花隈城を攻め、信長より村重の旧領摂津を与えられ、摂州尼崎に居城を移す。

本能寺の変で信長が光秀に討たれると、豊臣秀吉と結び、山崎の合戦で奮戦、ともに明智軍を破る。

清洲会議では、秀吉・勝家・丹羽長秀とともに、織田家の四宿老の一人となった。天正11年(1583)、秀吉の盟友として賤ヶ嶽の合戦にも参加。その功で織田信孝の旧領を得て、美濃大垣城主となる。

天正12年、小牧・長久手の戦いで、主家筋の、織田信雄と親友・秀吉との間で去就に迷うが、秀吉に「美濃・尾張・三河を与える」と利によって誘われる。犬山城奪取など活躍するが、別働隊のリーダーとして岡崎をめざした際、徳川家康の本拠三河を急襲せんと兵を進めたが、家康の反撃にあって戦い、敗れ、永井直勝に討たれた。49歳。

このとき長男之長(元助)も父とともに戦ったが、安東直次に討たれた。しかし次男の輝政は大大名となり家名を現した。