■ 池田輝政 ■


(1564〜1613)

永禄7年(1564)、清洲城に生まれた。信輝の次男で、幼名を古新といった。若年の頃から織田信長に側近として仕え、のちに秀吉に仕えた。

天正6年(1578)、荒木村重謀反の際、花隈城攻略に抜群の功を示し、信長より感状を賜る。天正10年(1582)、信長の武田征伐に従軍して功あり、天正12年、長久手の戦いで父信輝と兄元助を失ったために家督を相続。その遺領美濃10万石を継ぎ、大垣城を守る。ついで岐阜城主となる。

秀吉に従ってからも、天下統一の諸戦に参加し、九州征伐、小田原攻めののち、功により三河吉田に15万石を与えられ、転封となる。

文禄元年、朝鮮の役で渡海、福島正則、加藤清正らと親しみ、同3年(1594)、秀吉の命で家康の娘・督姫と結婚。以降、徳川氏と親交を深めた。

関ヶ原の戦いでは、徳川方の先遣部隊として岐阜城を落とし、東軍の背後に陣して、南宮山の毛利・長宗我部ら西軍の攻撃に備え、安国寺など毛利の本軍を釘付けにした事が、東軍勝利の一因となった。

戦後は、関ヶ原の功により、播磨52万石を領して、姫路城を構築。備前31万5千石、淡路6万3千石を加増され、一族80数万石におよび世に姫路宰相百万石と称された。慶長18年(1613)1月25日、姫路城で没した。50歳。

輝政の構築した姫路城はその天守の美しさにおいて日本一の名城と称された。池田氏の子孫はそののち、因幡・伯耆に転封、さらに備前岡山に移り明治を迎えた。