■ 福島正則 ■


(1561〜1624)

永禄4年(1561)、尾張国海東郡(現在の海部郡)に生まれた。幼名は市松。
父は市兵衛正信で、家業は桶屋という。母が秀吉の母(大政所)の妹であり、秀吉とは従兄弟同士になる。
その縁で、幼少から秀吉に仕え歴戦、播磨三木城、因幡鳥取城攻め、山崎の合戦に参加。軍功を上げた。

とくに賤ヶ岳の戦いでは一番槍の働きがあり、のち加藤清正らとともに七本槍の筆頭と数えられ、5000石を賜る。

小牧・長久手の戦い、紀州雑賀征伐と歴戦し、天正13年(1585)、秀吉の関白就任とともに従五位下・左衛門大夫に任官され、伊予今治11万石に封ぜられた。
九州征伐では肥後の検地奉行、小田原攻めでは伊豆韮山城を攻略した。

朝鮮の役では再度とも戦い、兵站・補給を相当し、軍功により、文禄4年(1595)、尾張清洲24万石を与えられた。
慶長2年(1597)には、羽柴姓を許されて侍従となる。

が、秀吉死後は家康に近づき、遺命を破って家康と婚姻を約束したことにより、石田三成らに詰問され対立を深めて、盟友・加藤清正らとともに、反三成派に加わって、三成を失脚させる。
正則はもともと秀吉にもっとも近く、豊臣家恩顧の筆頭大名であるが、その人となりは勇武で、秀吉の死後も、石田三成と合わなかったことが徳川家康に近づいた原因という。

慶長5年(1600)、家康とともに関ヶ原開戦の契機となった会津攻めに加わり、小山会議において率先して家康への臣従を誓い、西下して前哨戦の岐阜城攻めでも奮戦、これを攻略するなど活躍した。
関が原では東軍の先鋒となって、大軍の宇喜多勢と一進一退の激戦を展開、その勝利に大いに貢献して、安芸広島49万8千石の太守となる。

しかし正則が豊臣氏に近かった故に、大坂の陣では家康にその武勇を恐れられたと言われ、参陣を許されず、正則は江戸城留守居役を命ぜられた。

元和3年(1617)、広島城を無断で修理したのを責められ、元和5年(1619)、信濃川中島4万5千石に格下げ、信州高井に配されて謹慎となる。
そのまま、寛永元年(1624)、配所で失意と不遇のうちに病死した。64歳。