■ 細川藤孝 ■


(1534〜1610)

藤孝は幕府奉行衆・三淵(大和守)晴員(はるかず)の長子。次男ともいう。12代将軍・足利義晴の落胤という説もある。
天文3年(1534)、京都岡崎に生まれた。幼名万吉。与一郎。幽斎と号した。

7歳までに晴員の実兄で、勝竜寺城主・細川元常の養子になった。が、細川元常は管領家といっても傍流なので、和泉半国の守護という。

のち将軍義藤(義輝)に仕え、天文15年(1546)、藤孝と改める。
義輝に仕えたのは天文18年(1549)、16歳の時という。
19歳で従五位下・兵部大輔に任ぜられ、21歳で元常(養父)死去のため家督を継ぐ。

藤孝が脚光を浴びるようになったのは、永禄8年(1565年)、将軍・義輝が松永久秀に殺され、義輝の弟で、奈良一乗院門跡となっていた義昭を還俗させ、将軍となるのに尽力する頃からである。
永禄11年(1568)には、義昭の側近として信長とともに上洛、義昭の将軍即位のために働いた。

不和となった信長と義昭を和解させるべく努めたものの、以降は義昭から離れ、子の忠興とともに信長の部将として各地を転戦。

本能寺の変では親しい光秀に加担せず、剃髪して家督を嫡子・忠興に譲り幽斎と号す。忠興とは別に、丹後4万石の領主となる。
藤孝はその後、秀吉に仕えた。

天正15年(1587)、島津討伐に秀吉の相談役として西下。関が原の戦いでは東軍に属し田辺城に籠城した。

幽斎の剣は一流、野獣を押しのけた伝えなどあって腕力も強かったようで、武将としても優れていたが、文武兼備で、当時一流の文化人でもあった。特に和歌の達人だった。

武人には珍しく著書多数を残しているが、特に戦乱の多いこの時代は文化史の内容が著しく乏しく、しかも戦国武将となると記すべき人が一人も居ない中で、幽斎の名だけが出て来る点は特筆すべきだろう。

幽斎の籠城した田辺城が1万5千の西軍に囲まれると、幽斎は死を決し、古今伝授の書を智仁親王の許に送って、籠城戦で抵抗していたが、これが天皇に聞こえ、歌人としての名の高さと才が惜しまれて、勅使をもって田辺城の攻撃が中止させられたほどであった。

文武ともに磨きぬかれたこうした事跡には、恐るべき努力が伺える。また側室を持たなかったなどの話もある。
幽斎が12代将軍・足利義晴の落胤なら、将軍であるがゆえに殺された13代義輝も、流浪を余儀なくされつつ余生を真っ当した14代義昭も、幽斎の弟に当たる事が、幽斎の特異な人生観や、その時々の経緯を考える上で興味深い。

戦後は家康から但馬一国を加増され、晩年は京都吉田に住み、慶長15年(1610)、8月20日、京都で病死。77歳。