■ 細川忠興 ■


(1563〜1645)

永禄6年(1563)、京都に生まれる。細川輝経の嗣子。実父は藤孝(幽斎)。幼名を熊千代。のちに与一郎、三斎と号した。

天正5年(1577)、15歳で初陣、織田信長に属した。
歴戦武功を高め、同6年(1578)、信長の嫡子信忠の一字をもらい忠興とする。

忠興の妻は明智光秀の三女で、同7年(1579)、織田信長の命で嫁した。
同8年(1580)、丹後12万石を領し、八幡山城に住んだが、宮津に城を築き移ったというが、父・藤孝(幽斎)に従っての事であろう。

父の藤孝(幽斎)は当代一流の文化人で、和歌の達人だった。
その嫡子として忠興も文武に秀でた武将で、千利休の門下・七哲の一人に数えられる。

光秀の娘・玉子(のちのガラシャ)をめとるが、同10年(1582)、父、藤孝(幽斎)は、本能寺の変で親しい光秀に加担せず、剃髪して家督を嫡子・忠興に譲り幽斎と号し、忠興とは別に、丹後4万石の領主となる。幽斎に代わって忠興が宮津を領したのは、この時点からと思われる。

忠興は本能寺の変ののち、山崎の戦いで羽柴秀吉と組む。また室が明智光秀の娘(ガラシヤ夫人玉子)であったため離別したが、のち家康の仲介により秀吉の命で再び迎えた。

小牧、九州、小田原攻め、朝鮮の役に参加。

秀吉の死後は徳川氏に通じ、関ヶ原の合戦では父子ともに東軍に属した。
妻ガラシャはキリスト教会に帰依し、関が原の戦いのとき、石田三成の人質になるのを拒み、家老に自ら刺させて死んだ。
父・幽斎は居城の田辺城(丹後)を西軍に包囲されるが、朝廷より停戦を勅命され、戦後、家康から但馬一国を加増される。

忠興は関が原の戦いで三成軍と戦い、功によって39万9千石を与えられ豊前中津城に入り、太守となる。
のち豊前小倉城を築く。小倉から肥後54万石に栄転し、島津氏にそなえ、家督を子の忠利に譲っている。
幽斎は晩年、京都吉田に住み、慶長15年、77歳で没。

その後、忠利は寛永9年(1632)、熊本で54万石の太守となった。
忠興は、正保2年(1645)12月2日、隠居地の肥後八代で病死。83歳。