■ 細川勝元 ■



(1430〜1473)

細川氏は足利氏の支流で、初代、義季が三河国額田郡細川郷(現在、岡崎市)に居住したところから、地名を氏とした。足利尊氏に従って軍功があり、とくに6代・頼春は尊氏の側近となり阿波・備後の守護に任命された。
以後、細川氏は阿波・讃岐・摂津・丹波など、畿内周辺と四国の7〜8ヶ国の守護職となり、惣領家は室町幕府の三管領の筆頭となる。

勝元は、こうした名門意識と強大な権力を背負って、細川惣領家に永亨2年(1430)、持之の子として生まれた。幼名は聡明丸。

13歳のとき父・持之の死で家督を相続し、わずか16歳で管領に任命された。以後、死ぬまでに勝元は、通算20年以上も管領の座にあった。

康生元年(1455)、畠山持国の死後、山名持豊(宗全)とともに幕府の重臣となる。
勝元は、この山名宗全の長女を娶っている。若くして管領になった勝元には後援者が必要であった上、宗全はその頃、急激に台頭して管領家をしのぐほどになっていたので、勝元はさらに宗全の末子・豊久を養子にして同盟を強化し、管領の権力を独占する勢いとなった。

ところが畠山と斯波氏の両氏に同時に家督問題がおこった。山名宗全が畠山義就および斯波義廉、細川勝元は畠山政長および斯波義敏をそれぞれ援助した上、名門守護・赤松氏の再興をめぐる問題で、勝元と宗全は対立する立場となり、勝元に男子が誕生すると豊久を仏門に入れたため、宗全が激怒した。

二人の対立が決定的になるのは将軍・義政の後嗣問題で、勝元は義政の弟・義視を、宗全は義政の子・義尚をそれぞれ担ぎ(後に逆転する)、これに管領家の斯波・畠山の家督争いがからんで、応仁元年(1467)、応仁の乱(応仁文明の大乱)の幕開けとなる。ついに細川・山名の同盟は崩壊する。

元々、二氏の不和がこの大乱を生んだと見る向きもあり、細川氏と敵対する大内氏と宗全が手を組んだ事などが上げられるが、大内氏の積極的な参戦は、細川・山名の決裂より後である。

山名の軍が斯波義兼・畠山義就ら20ヶ国9万人を動員、西軍と呼ばれたのに対して、細川勝元の軍は東軍と呼ばれ、斯波義敏・畠山政長ら、24ヶ国16万人を結集、京の東北に陣を張った。

京都を舞台にしたこの戦いは一進一退、11年も続くことになる。だが、文明5年(1473)3月、宗全が死ぬと同年5月に、勝元もつづけて病死する。勝元44歳。
応仁の乱じたいは終息に向かうものの、これを境に、二人に関係なく長い戦国時代の幕がひらくのである。

勝元は応仁の大乱を起こした武将ではあったが、武人としては学問を好み、禅宗に帰依し、和歌や遊芸にも長じていた。現在京都に残る石庭で知られる竜安寺を建立したのも勝元であった。その巨館も、貴族趣味で広大な地域に泉水をもち、衣類、調度すべて贅をつくしたものであったという。