■ 堀尾吉晴 ■


(1543?〜1611)

天文12年(1543)ごろ、堀尾泰晴の子として尾張の供御所村に生まれる。幼名は仁王丸。長じて茂助と改め、のちに可晴ともいった。

織田信長に仕え、初陣は16歳という。その後も秀吉に従って歴戦。中国征伐など、秀吉の行なった戦いに参戦し、高浜城1万7千石、佐和山城4万石と立身し、天正18年(1590)には浜松城12万石に封じられる。中老職となったが、秀吉死後は徳川家康に通じた。

関ヶ原の戦いののち、出雲・隠岐24万石に封じられ松江城を築いた。
24万石の領主としてふさわしい大城であったので、この時の工事はなかなかはかどらず、家中の者や領民をその工事につかせたが、吉晴の室、津田氏は賢夫人の誉れが高く、自ら家中の女子を指図して焚き出しに当たり、工事に従うものをねぎらったので、城造りは順調に進んだという。

慶長16年(1611)6月17日、松江の居城で病死した。69歳。