■ 堀秀政 ■


(1553〜1590)

秀重の嫡子で、初め美濃の斎藤氏に仕えたともいうが、秀政自身は、永禄8年(1565)頃から信長に近侍しており、生年から計算すると、この時がまだ12歳なので、織田家が最初かもしれない。
信長の下では奏者役や添状発給の地位にあったといい、『信長公記』や『太閤記』では、久太郎の通称でしばしば登場する。

信長配下の武将として越前一向一揆、紀州雑賀攻めに従軍して、信長から2万5千石を与えられ、近江長浜城主となったと言うが、時期については不明(後に秀吉から与えられたのかもしれない)。
その後も、荒木村重の討伐や武田攻めに参加。天正10年(1582)、信長に命じられ、備中高松城を攻める秀吉の陣に赴いたが、陣中で本能寺の変を知る。

山崎の合戦では秀吉軍の先鋒として、明智軍の勇将・斉藤利三隊を激戦の末に破る。
賤ヶ嶽〜北之庄までの戦いでも、柴田勝家の本隊を大いに追撃し、近江佐和山9万石を領す。秀吉より羽柴姓を与えられ、左衛門督に任ぜられたことから、羽柴左衛門督と呼ばれた。

秀政の名を高めたのは小牧・長久手の合戦で、三好秀次・池田恒興らと岡崎へ挺進中、家康の追撃を受け、恒興・森長可らが戦死するなか、榊原康政・大須賀康高ら、徳川軍の精鋭を破った。
天正13年(1585)、越前北ノ庄18万石に栄転する。

天正18年(1590)の小田原攻めにも参陣するが、早川口の陣中で病没。

嫡子・秀治の代、秀吉の死の直前、越前春日山に移封。後に越後45万石。
関ヶ原では東軍に属し、上杉景勝の監視に任じて本領を安堵されたが、慶長15年(1610)に家臣の相続争いを原因に、家康に取りつぶされていった。