■ 本多忠勝 ■



(1548〜1610)

天文17(1548)に生まれた。生誕地は一説に三河洞城という。
早くより家康に仕え、永禄7年(1564)、吉田城を攻めたのをはじめ、家康に従って戦功をあげた。姉川の戦いでは浅井、朝倉の軍を破った。
天正3年(1575)、長篠の戦いでも勇戦。同年から天正10年(1582)までに、小山、田中、持舟、江尻らの城を攻め、徳川四天王としてその武勇は広く世に知れ渡った。

天正18(1590)、小田原征伐では関東一帯の城を攻め、上総の大多喜城10万石を与えられた。
慶長5年(1600)、会津征伐の軍に従い、西下して岐阜城を落とし、関ヶ原では石田三成を敗走させた。翌慶長6年(1601)に桑名城に移り、大多喜5万石と合わせ15万石に封ぜられた。

忠勝は徳川四天王、井伊直政、酒井忠次、榊原康政の中でももっとも戦国の武将らしい人物とされ、戦いにのぞむこと50数回におよんだが、一度も手傷を受けたことがなかったという。激戦が多く、常に第一戦に立ったとも言う。織田信長も豊臣秀吉も、忠勝の豪勇には讃辞を惜しまなかったという。

また蜻蛉(トンボ)の意匠をこらした忠勝の兜(蜻蛉切り)とともに、忠勝の娘の小松殿は真田信之(幸村の兄)に嫁いだ女丈夫として有名。

慶長15年(1610)、桑名の城内で没した。63歳。