■ 日野富子 ■


(1440〜1496)

日野家は藤原氏である。
藤原継嗣(北家)の兄、参議真夏を始祖とし、その孫・家宗が現在の京都市伏見区に法界寺を建立した時、そこが「日野荘」であった事から「日野」の名が興された。

歌学をお家芸とする貴族らしさの反面、日野家からは、鎌倉に対し、後醍醐天皇を主導とする倒幕運動を展開した日野質朝・俊基も出ており、それでいて足利政権になると将軍に正室を代々送り込み、巧みに北朝側に擦り寄る一族を出すなど、この政治色の強さは、公家の中でも儒学を専門とする学者的素養ゆえかもしれない。

富子の曾々祖父・資康の妹・業子と、娘・康子が3代・義満の室に、資康の娘・栄子が4代・義持の室に、富子の曾祖父・重光の娘・宗子と重子が6代・義教の室になり、この重子が8代・義政を生んだ。

しかし富子の祖父・義資が6代・義教に暗殺されると、富子の父・政光(重政)は出家し、富子の兄・勝光が当主の座を引き継いで時代をしのいだ。

富子は永亨12年(1440)に生まれた。
翌年(1441)、6代・義教が暗殺され、富子は16歳になると、8代・義政の室となったが、その婚礼の記録が極端に少ないという。
その当時、義政の乳母・今参局が権勢を奮っていたためとも言われるが、今参局は後に追放されている。

長禄3年(1459)、富子は義政の女子を生んだが、生後まもなく死亡。
他の側室にも女子しか生まれなかったため、夫の義政は弟で僧侶だった義視を呼び戻して養子とし、義視に次期将軍の座を約した。

そこに富子が生んだのが、9代将軍となる義尚である。
困った義政が決断を避けたため、義視は三管領家の細川勝元を、富子は山名宗全を後見に立てた。
ちょうどその頃、他の三管領、畠山氏と斯波氏にも家督争いがあったので、細川勝元に斯波義敏と畠山政長、山名宗全に斯波義廉と畠山義就がついて、応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発した。

戦いは互いに陣地を取りあい、放火しあって、京の都じゅうを大混乱に陥れ、やがて全国の勢力にまで波及して国力の衰退とともに、地方大名の台頭を促した。
あげく、富子は途中から細川勝元と手を組んで、細川・山名が立場を入れ替えるなど、乱は収拾のつかないまま、細川勝元と山名宗全のほぼ同時の死によって、文明9年(1477)ごろ、自然終息した。

が、その後も乱の余波が全国に散らばり、後の戦国の様相を帯びる直接の原因となった事や、この時期から合戦を名のある武将のみによらず、足軽と呼ばれる戦闘員が出たため、戦国時代の始まりを、この応仁の乱(1467)からと見なすのが一般的で、この大乱を巻き起こした事が、まず日野富子の名が高まった要因と言える。

さらに、結局は義視を遠ざけ、我が子の義尚を9代将軍に就けた事で、悪女として名高いが、事態の収拾のため何度も自ら動いていたために、悪名を背負い込んだとも言える。

また兄・勝光が巨利を持っていた事とも関連するのか、富子は荒廃した禁裏の修理などのため、多くの財を動かしたと言われる一方、この兄・勝光には毒殺の噂もつきまとった。
さらに富子自身も、米の相場に手を出し、京の七口に関税をかけるなど、多くから反発を受けたが、夫・義政の浪費との関連もあったのか、それらが死去するまで手元に残っていた痕跡は無いという。

夫の義政は東山山荘(後にいう銀閣寺)に引きこもり、富子と不和となった義尚が、延徳元年(1489)に若くして死んだ後も、富子は10代・義植(義視と富子の妹との間に生まれた子)を擁立した。

しかしやがて義植にも反発されると、富子は細川勝元の子・政元と手を組んで、明応2年(1493)、堀越公方・足利政知の子・足利義澄を11代将軍に就ける(明応の変)など、政治に強く関わりを持ち続けた。

晩年は近江に住んでいたが、没した場所など詳細は不明。
夫・義政の死の6年後、明応5年(1496)に死没。57歳。