■ 蜂須賀正勝 ■


(1526〜1586)

蜂須賀氏は清和源氏の流れ、足利泰氏の末正昭のとき、尾張蜂須賀に住み、所領300貫の領主で蜂須賀姓を名乗った。蜂須賀氏を盗賊や野武士の首領と伝えるのは誤りである。ただ乱世の戦国時代なので野武士的行動があったのであろう。

正勝は大永6年(1526)尾張蜂須賀村に生まれた。蜂須賀正利の長子、幼名小六。"蜂須賀小六"といったほうがよく知られている。

はじめ美濃の斉藤道三に仕えたが、道三の死後、織田信賢、信清に属し、のち羽柴秀吉の家来になった。
青年時代の秀吉との出会いは、あまりにも有名だが、正勝は木曽川の中洲を支配する美濃川並衆の頭領で、多様な技術者集団との人脈をもっていた事が、秀吉に出あったとき、大いに役立ったという事のようだ。

永禄9年(1566)の墨俣城にはじまり、近江箕作城、越前手筒山城、金ヶ崎城、近江横山城、伊勢長島城、摂津石山城、播磨三木城、因幡鳥取城などの攻略に功があり、天正9年(1581)、播磨竜野城を与えられ、城主となる。
また備中高松城攻めには、黒田孝高とともに開城に活躍した。
秀吉の主な攻城戦には常に従軍して、戦功をあげ、また奇計の名手で軍略に秀れ、政治的手腕も高かったという。

天正13年(1585)四国征伐のとき、阿波木津城を攻略。その子・家政とともに戦功多く、阿波一国17万3千石を家政に与えられ、徳島城を築いた。
翌天正14年(1586)5月24日、大坂で没す。病死という。61歳。