■ 蜂須賀家政 ■


(1558〜1638)

蜂須賀正勝の子。永禄元年(1558)、尾張蜂須賀村に生まれた。幼名を一茂、政家、可慶、茂成などといったという。天正3年(1575)より、父とともに羽柴秀吉に仕えた。

長篠の戦いを経て、中国攻めの際、秀吉の旗本・黄母衣衆の一員となり、播磨広瀬城攻め、羽衣石城の救援などで活躍。
とくに天正8年(1580)、伯耆羽衣石城に南条元続が吉川元春の大軍に囲まれたとき、城の兵糧が尽き、落城寸前のところを機略をもって兵糧を城内に搬び入れ、危急を救った戦いは、秀吉も多いに賞するところであったと伝えられる。

信長の死後も、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧の戦い、雑賀攻め、四国攻め、九州征伐、小田原攻めなどに参戦し戦功をあげ、天正14年(1586)に、阿波一国18万石(17万3千石とも)の大名となり、徳島に城を築く。

再度の朝鮮の役にも従い、とくに戦功があったが、秀吉の死後は、家康の養女・氏姫を嫡子・至鎮(よししげ)の妻に迎えるなど、家康の婚姻外交に加担。

関が原の合戦では、はじめ石田三成に加担して西軍に属したが、途中でやめて実際には動かず、子の至鎮が東軍の徳川家康に属す戦略を取って、本領を安堵される。
家政は恭順の意を表して剃髪、家督を至鎮に譲り、蓮庵と号した。

また、大坂の陣でも家康に属したが、シケのため渡海不能として戦闘に参加せず、また至鎮が参陣した。
寛永15年(1638)12月30日没す。81歳。