■ 蒲生氏郷 ■


(1556〜1595)

弘治2年(1556)、近江蒲生郡の日野城にて誕生。藤原秀郷の子孫と言われるが、蒲生郡に居していたため蒲生姓を名乗った。

氏郷の父、賢秀は日野城主にして、六角承禎に仕えており、信長が上洛に先立ち近江平定し、承禎を攻めた折、賢秀は降伏し、氏郷は人質として承禎から信長に差し出され、岐阜に送られた。

永禄12年(1569)、元服して忠三郎。妻は信長の娘、冬姫。同年、初陣により戦功があり、日野城に帰された。

元亀元年(1570)には、朝倉攻め。同2年(1571)、伊勢長島の合戦。同3年(1572)、長篠合戦。同6年(1575)、摂津伊丹攻め、同9年(1578)、伊賀攻め。同10年(1579)、武田攻め。文武両道に秀れ、ことにその才智は信長によく認められた、という。

本能寺の変では、信長の妻子を守って日野城に篭城。その後、秀吉に属し滝川一益を攻めたが、秀吉にもその才を愛され、天正12年(1584)、小牧の合戦で立てた戦功により、伊勢松島に封じられ、12万石が与えられた。正四位下、左近衛少将。その後、紀州攻め、九州遠征。

天正18年(1590)、小田原に出陣後、やはり戦功により陸奥守護となり、42万石。翌19年(1591)、会津黒川(若松)城にあって、92万石。

これは秀吉の奥州方面司令官を任されたことを意味し、伊達政宗や徳川家康の監視役であり、牽制役でもあった。人質からの出発で、しかも36歳にして、この出世と信頼は異例と言ってよく、いかに氏郷の才気が活発であったか計り知れよう。

ただし元々会津を所領にしていた伊達政宗には、大崎、葛西などの一揆を煽動されて悩まされている。

武勇のみならず、茶の湯にも秀れ、「利休七哲」に数えられ重んじられたため、利休の自刃ののち、細川三斎とともに千家再興に尽力した。また、高山右近との友誼によりキリシタンに帰依しており、洗礼名はレオン。

朝鮮の役において、秀吉とともに名護屋城に居たが、発病を得て会津に戻り、文禄4年(1595)2月7日、京において没。40歳。

あまりの才気ゆえに、秀吉に妬まれ毒殺されたとも、石田三成と直江兼続に謀殺されたとも、種説あるが、いずれも信憑性に乏しく、その才気と若死を惜しむあまりの風説の類のように思われる。