■ 足利義政 ■


(1436〜1490)

永享8年(1436)、6代将軍義教の二子として誕生。幼名、義成。

宝徳元年(1449)、8代将軍となる。このころ、幕府の力は衰え、土一揆や徳政一揆がしきりにおこったが、幕府には弾圧する力がなく、徳政令を多発。義政は13回も出した。

義政より、その正室、日野富子の専横は有名で、富子はしきりに政治に口出しした。しかし彼女に子がなかったため、義政は、弟の義視に跡を継がせようとしたが、やがて富子に実子義尚が誕生してしまい、山名持豊を頼り、世継ぎを変更させようとした。

このことが、持豊と対立していた細川勝元との争いに火をつけ、応仁の乱(1467〜1477)の原因となり、乱は京の町を廃墟と化した。

しかし義正は、その後も政治を顧みず、雅風に興じ、義満の北山山荘(金閣)にならって、東山山荘(銀閣)を建立したが、費用にこと欠き、生前には完成せず、文明5年(1473)、子、義尚に将軍職を譲って東山に隠居し、東山殿と呼ばれた。延徳2年(1490)死去。55歳。