■ 朝倉義景 ■


(1533〜1573)

朝倉氏の開祖は、開化天皇の末、日下部氏の一族で、平安時代末期、但馬出石郡、朝倉庄に移り住み、朝倉氏を姓とした。南北朝時代、足利一族の斯波氏に従い、越前に入る。以降、「斯波三人衆」の一人となる。

義景より四代前の敏景(孝景)は、才智優れた武将で、越前での勢力基盤を築き、その家憲「朝倉敏景(孝景)十七箇条」は子孫の誡として、また戦国大名の先駆を示すものとして有名である。

文明3年(1471)、敏景(孝景)の子、氏景は越前守護となり、さらに子(義景の父)の孝景のころは、すでに幕府の信任が厚く、将軍御供衆、相伴衆に列し、直臣待遇を受けるなど、一族である教景の活躍もあり、朝倉氏全盛時代を迎える。

天文17年(1548)、義景(当初は延景)は16歳で父孝景の跡を継ぎ、21年(1552)、将軍、足利義輝より一字を賜り改名、左衛門督に任命される。

弘治元年(1555)、加賀一向一揆などを破り加賀半国を制圧、武名をあげたが、この年、一族の大黒柱、教景が病没。その後の義景は文弱に流れ、遊芸を好み、一乗谷の居館も京洛の華美をまねた。

永禄8年(1565)、京で将軍義輝が暗殺されるが、その弟、覚慶(のちの足利義昭)は奈良を脱出し、近江、若狭と流浪の末、義景を頼り、義景はこれを、居城、一乗谷に迎える。が、義昭の再三の要請にも動かず、義景の人格、武力頼むに足らぬところから、3年後、しびれを切らした義昭は織田信長に走り、信長によって上洛を果たす事となる。

永禄10年、有力家臣、堀江景忠、景実父子が、加賀一向衆と通じ、反乱を起こした事から、朝倉氏は家臣統制不能を招く。その傍ら、義昭の名で信長からの上洛命令を受けるが、義景はこれを拒否。

元亀元年(1570)4月、信長が朝倉討伐。2万の大軍で朝倉領若狭に進出。天筒山城、金ヶ崎城を攻略。この時、同盟者、浅井長政が信長を裏切り、これを挟み撃ちに立ち上がるが、朝倉氏より一族の朝倉景鏡が2万余の大軍で追撃に出発したのは、信長撤退の10日後であり、秀吉を殿軍に定めた信長の迅速な逃亡(「金ヶ崎の退き口」)に、完全に遅れをとった。

同年6月、態勢を立て直した信長は、浅井氏の小谷城に迫った。義景は援軍を出すが、8000の浅井軍が2万3千の織田陣形を突き崩したのに対し、朝倉軍は徳川に押されて大敗。結果、世に有名な姉川合戦は、織田、徳川の勝利に終った。

元亀3年、足利義昭の呼びかけで武田信玄が西上に立ち上がる。義景は、浅井長政と連携して信玄を援護し、信長をクギづけにするべきであったが、突然帰国して、信長包囲網に重大な綻びを作る。

信玄の死によって、信長は九死に一生を得、天正元年(1573)、8月、再び浅井氏の救援に柳瀬に戦い撃破。義景は北近江から撤退したが、信長はこれを追撃し一乗谷に乱入。義景は、一族の景鏡の裏切りに会い、8月20日、六坊賢松寺に囲まれ、自刃し、越前の名家もここに滅びた。41歳。

居城、一乗谷は「越前の小京都」とまで称えられ、今も当時の面影を史跡に伝えている。