■ 有馬晴信 ■


(1567〜1612)

有馬氏、もとは藤原氏の出で藤原純友の後と称す。健保年間、藤原経澄が肥前高来郡を領し有馬に居城、有馬氏を称した。

晴信は永禄10年(1567)、肥前日野江城で生まれた。

天正15年(1587)、秀吉の九州征伐ののち、秀吉の配下となり、日野江城に住んだ。自らも洗礼をうけ、天正10年には、大友・大村氏とともにローマへ使節を送った。それ故、秀吉がキリシタン禁止令を出したときも、宣教師たちに保護を与えた。

征韓の役には先鋒として海を渡り、7年間朝鮮にあって戦った。関ヶ原の戦いでは東軍に参加、九州で小西行長の領土を攻めた。

慶長14年(1609)、家康の許しを得てポルトガル船を長崎港に沈めた。これは晴信の家臣と日本人船員が、マカオでポルトガル人に殺された報復という。のち、本多正純の家臣、岡本大八の朱印偽造事件に連座して、晴信も甲斐の都留郡に流され、慶長17年(1612)5月、配流地で切腹させられた。46歳。