■ 荒木村重 ■


(?〜1586)

生年不明。摂津に生まれる。幼名、弘介。天文弘治のころは、池田城主、池田勝政(勝正)に属した。勝政は元々、管領、細川氏の被官で、摂津三守護の一人であった。

永禄11年(1568)、村重は茨木城主となり、三好氏に従った。が、池田勝政は三好衆や松永久秀と戦い、また信長の畿内制覇に抵抗し、降伏している。

天正元年(1573)、村重は池田氏の内紛に乗じて織田信長の麾下に入る。茨木城主となったのは、この時ともいう。旧主池田勝政の失脚により池田氏の旧領を領有。つづいて、信長の命により将軍義昭討伐に従軍。槇島城を攻撃する。

11月には、伊丹城を落として、入城。伊丹氏を滅ぼし、有岡城と改め(のち伊丹城と改める)、摂津一国をおさめた。

天正4年、明智光秀と石山本願寺を攻め、つづいて羽柴秀吉と播磨に転戦、毛利氏を攻めた。

天正6年(1578)、中国攻めを担当した秀吉の配下に組み入れられる。が、この頃から村重には、敵との内通を噂され、村重の去就が、信長の指揮系統を離れはじめる。一説には、本願寺包囲中、雑兵が城中に食糧を売っていた、とも言われ、またその真偽を、村重自身が正したところ本当であったので、信長の先手を打って、篭城に及んだとも言われている。

信長は、摂津の村重勢力が、戦略上脅威となるため、光秀や秀吉を説得に行かせるが、村重は謀反を決意。毛利、本願寺に通じ、十ヶ月の有岡篭城に及んだ末、孤立。やがて、家族や部下を見捨て、単身脱出。尼崎に篭る。

有岡城は信長の兵に囲まれ、3ヶ月後に落城。村重の家族や部下数百人が、ことごとく見せしめのため即座に処刑された……とも、城中に在った男女120人以上が、尼崎で磔……とも、村重の妻子一族30人余が京都で斬られた……とも言われる。それでも村重は、翌7年(1579)、またしても城をぬけ、各地を放浪し、毛利氏を頼り安芸にのがれた。

のちに安芸で髪を落とし、道糞、 道菫と号し、茶道の道に入った。秀吉が天下をとると、招かれて秀吉に仕え、堺に住んだ。天正14年(1586)没。一説に83歳ともいう。

千利休の高弟、七哲の一人に数えられる風流人として名が高い。