■ 安国寺恵瓊 ■


(?〜1600)

出生不明。一説に安芸の国沼田の農民の子といわれ、また安芸金山の城主武田信重の子とも称する。京で出家し、のち安芸で安国寺の住持となった。弁舌さわやかで、かつまた博学であったため、毛利輝元と親しみ、毛利家の軍師、外交官として働いた。彼を有名としたのは天正元年、信長の横死を予言したその眼力の鋭さであった。

天正10年(1582)、本能寺の変が起こった時、恵瓊は交戦中の秀吉と毛利方との和睦の折衝にあたって活躍した。このため秀吉に信頼され、伊予和気郡に6万石を与えられ、僧と大名を兼ねた。九州征伐にも従軍し、朝鮮の役にも再度出陣した。

関ヶ原の戦いでは、恵瓊は石田方首謀者の一人であり、敗れて伊勢にのがれ、のち、京都に潜入して東本願寺に鞍馬山月昭寺、建仁寺と逃げたが捕えられ、慶長5年10月1日、京六条河原で石田三成、小西行長らとともに斬られた。年不明。戦国の大名として特異な存在であった。

僧でありながら、武将として戦った人には、他に今川義元の謀臣太原雪斎和尚がある。