■ 尼子経久 ■


(1458〜1541)

尼子氏は宇多源氏、鎌倉以来の名族、佐々木氏の一族であり、室町時代の初期、京極高久(京極道誉ー高秀ー高久)が、近江犬上郡甲良庄尼子郷に住まい、尼子を名乗った。その子、持久のとき、京極氏の守護代として出雲に出向し、出雲守護、出雲尼子氏の初代となる。持久の子、清定と、そのさらに嫡男、経久の二代にわたり勢力を拡大。

経久は、長禄2年(1458)、富田月山城に誕生。幼名、又四郎。長じて民部小輔。ついで伊予守。幼少に父の跡を継いで(一説に25歳ともいう)守護代となった。

守護、京極氏をないがしろにして所領や租税を横領した罪により、文明16年(1484)、足利幕府に守護代職を罷免され、さらに居城冨田月山城を国人層によって追放され、諸国を放浪。同18年(1486)、元旦祝いの芸人集団、蜂屋党にまぎれこみ、富田月山城中に潜入、放火。火災の混乱に乗じて、経久の後任として富田城にあった塩冶掃部介を殺害。月山城を奪回した。

そののち、出雲の有力豪族、三沢、三刀屋氏らを屈服させ、国内を統一。

永正5年(1508)には、周防の大内義興らと、将軍、足利義稙を奉じて上洛、足利義澄らと戦い、その帰国後、義興の留守中に大内領内に侵入。一時、大内氏を圧倒。さらに石見、安芸、因幡、伯耆、美作、但馬、備後、備前、備中などに勢力を伸ばし、山陰山陽の諸国を併せてやがて11ヶ国にまたがる太守となった。

大永2年(1522)、大内義興と安芸に戦い、同4年(1524)の金山付近の戦いで大勝をおさめた。これには尼子氏についた毛利元就の力も大きいという(のち元就と尼子氏は不仲となり、毛利氏は大内氏に属し、その勢力をのばした)。

天文元年(1532)、対立していた三男、興久を討ち、同6年(1537)、戦死した嫡男、政久の子、晴久に家督を譲る。

経久は、天文10年(1541)10月13日、月山城で病没。84歳。 孫晴久はその勢いをよく支えたが、その子、義久の代になり、急速に勢力が衰え、毛利の軍門に降った。