■ 明智光春 ■

2000/02/18 改訂
(ご協力、森田丹波守さま)

(1537?〜1582)

生年不明。一説に、天文6年(1537)誕生。明智光安の子という説と、三宅出雲の子という説がある。後者の説では、はじめ三宅弥平次(『弥太郎』とも?)と称し、明智光秀に仕えてその女を娶り、姓を明智と改め、秀満と名乗った。のちに左馬助と号す。他に、光春、光俊、秀俊など、なぜか名乗りが多彩。光秀に忠勤をはげみ、思慮深かったため、侍大将となった。小姓より抜擢されたとも言われている。常に明智勢の先鋒として戦い、その武功は高く評価された。

天正9年(1581)、丹波福知山の城主となった。天正10年6月2日、光秀とともに本能寺で織田信長を討つ。

同月13日、山崎の一戦で光秀の敗死を知り、守っていた安土城天守を出て、本城坂本に琵琶湖を渡って入り、同14日、攻めよせた堀秀政の軍に重宝の数々を送りつけ、光秀の妻子を殺し、自らも自刃した。推定46歳。

安土城を出るとき、光春がそれを焼いた……とされてきたが、信長の子、信雄が放火した、との説もあり、近頃ではこちらが主流に思われる。が、詳細は不明。

光春が愛馬に乗って琵琶湖を渡った話は軍記物語、講談などで広く知られており、現在大津市の湖岸にも「左馬助湖水渡の碑」が建っているが、実際には重い武具甲冑を着け、馬に乗って長い距離を泳ぐことは不可能なので、湖中道か小舟で渡ったものといわれている。話としては伝説の方が興味深い。