■ 明智光秀 ■

(ご協力、森田丹波守さま)
2002/07/30 リンク追加

(1528?〜1582)

光秀の出身については諸説あるが、主に次の二つを取り上げる。

一つは、美濃の土岐氏の一族で、明智光綱の子という説。光綱は光秀幼少時に死亡しため、光秀は叔父の明智光安(入道、宗宿)に育てられ、16歳で元服、十兵衛光秀と名乗った。斎藤道三と、その子の義竜が争ったとき、光安は道三に組みして明智城に篭り、討死の前に、光秀に、自分の子、光俊(明智光春と同一とも言われている)と甥の光忠を託して脱出させた。

もう一つは、若狭の刀鍛冶、冬広の次男という説。近江に出て佐々木氏に仕え、明智十兵衛と称した。

次に信長に仕えた経緯だが、これも諸説ある。前述の後者の説を延長したものでは、佐々木の使者として織田氏に行ったおり、信長が光秀の才を見込み、佐々木氏から貰い受け、家来にした……という話。

が、だいたいは、諸国を流浪した果てに、何らかの形で兵学に通じ、やがて越前一乗谷の朝倉氏に仕えた……という話が主流ではないかと思われる。

とは言え、召抱えられた当初の知行が500貫と伝えられている点が謎で、一介の浪人にすぎない光秀を、なぜ朝倉氏ほどの大家がそれほどの知行で迎えるのか、その経緯もよくわからない。一説には、越前、称念寺の園阿上人の推挙と言われるらしいが、それよりも、光秀が加賀一向一揆を討伐した話もあり、その恩賞で知行アップしたと受け取る方が、自然であるような気がする。また、鉄砲の腕を買われたという説もあり、実際には徐々に認められていったのではなかろうか。

この朝倉館において、光秀は、同家に寄寓していた足利義昭に目通りがかない、その直臣となる。義昭の側近、細川藤孝との親交ゆえ……とも言われている。藤孝と二人で、義昭と信長との間を取り持つために奔走しあった、という。

信長に仕えたとされるのは、永禄9年(1566)〜11年(1568)。義昭が越前一乗谷から、美濃の信長のもとに赴くとき、光秀もこれに随行した、という説に基づくならば、11年の方が正解だろう。なにしろ、信長の家来となった翌年には、滝川一益に従って北陸遠征に参加したとされる。織田家における破格の抜擢の方は、当初から始まっていたと見て、まず間違いないだろう。

当時、光秀は、義昭と信長という二人の主人を持ったことになる。あるいは信長に、義昭との連絡係としての利用価値と手腕を認められて、かなり高禄で召抱えられたのではなかろうか。

その後、三好三人衆との合戦にも参加するが、光秀ならではの真価を発揮するのは、京都奉行としてであろう。朝廷、公卿、寺社などの勢力がひしめく京にあって、光秀の深い学識と怜悧な行政手腕が頭角をあらわす。

光秀に関する記録が鮮明になってくるのは、さらに伊勢、近江、丹波などの戦に参加。それらの武功により、近江志賀郡に10万石を与えられた元亀元年(1571)からである。大津城に入城、のち坂本城城主となる。44歳。

また、この頃から将軍義昭と信長の確執も深まり、天正元年(1573)、織田軍の一員として義昭を攻めることとなる。

天正2年(1574)、従五位下、日向守。翌3年(1575)、惟任の姓を与えられ、丹波国領主に任じられ、これより丹波制圧戦を開始。このころ信長は、長篠合戦、安土城築城、石山本願寺攻略、松永久秀征伐などに多忙であり、光秀は都度、応援を命じられたと見られ、信長からの過度の信頼と重圧が想像できる。

天正6年(1578)、細川藤孝とともに亀山城攻略。さらに八上城に波多野秀治を囲み、翌7年(1579)に落城させ、翌8年(1580)、丹波一国を加増され、亀山城、福智山城を建設。亀山城主になる。丹波一国と坂本をあわせて、実に32万石の大名にのし上がったことになる。

しかし同時に、このころから信長との間に破綻が始まっていた……という話も多くあり、最も有名なのが、丹波の波多野氏を攻めたおり、信長との方針のちがいにより、人質に出していた母が殺され、信長への怨念を深めた、などと言われている。しかしこの逸話は、やや整合性に乏しく、史実と見るに不適当と言わざるを得ない。

天正10年(1582)、3月、徳川家康と穴山梅雪の接待役に任じられる。この折にも、接待の不足を信長に罵倒されたり、あるいは役を解かれたと言われ、怨恨を抱いたとされる根拠に加えられている。

5月17日、備中高松城を攻略中の羽柴秀吉から、信長への援軍要請により、光秀も出陣を命じられる。この折も、信長に丹波国を没収された、とか、同輩にすぎぬ秀吉の下に置かれた、などとよく取り沙汰される部分である。

26日、光秀は、坂本城から亀山城に入り、愛宕権現に参篭。信長討伐を決意したのはこの時……という説が主流に思われる。愛宕権現において、里村紹巴と連歌会を主催。有名な光秀発句は、ここで編み出された。

光秀
「ときは今あめが下知る五月哉」

紹巴
「花落つる流れの末を関とめて」

29日、愛宕山から亀山城へ帰城。6月1日、信長に軍装披露のため、と称して、自軍に出陣の命を飛ばす。老の坂において、明智光春(秀満)、明智治右衛門(光忠)、藤田伝五、斎藤利三、溝尾庄兵衛の5人に信長追討の決意を打ち明ける。ここから家中の主だった者に伝令が下り、安田作兵衛(天野源右衛門)が、味方から信長へ通報する者を防ぐべく、先陣をつとめた。

桂川を渡ったとき、ようやく全軍に命令。有名な「敵は本能寺にあり」である。一説に「信長公を討ち天下を取る。戦功あるものはそれ相応に取り立てる。万一本人討死しても親子兄弟、親戚縁者にいたるまで身の立つようにする」ともある。

本能寺の変における、光秀の信長急襲の根拠に関しては、実に様々な説がある。だいたい、怨恨説、野望説、朝廷および家康、秀吉などの黒幕説に集約される、と言って良いだろう。

何しろ信長を本能寺に急襲し、自刃に追い込んだ光秀は、その後、盟友、細川藤孝、筒井順慶らも味方にできず、後手に回ったまま、山崎合戦で秀吉に敗れる。朝廷より宣下を受けてから、わずか3日後のことである。いわゆる「光秀の三日天下」とされる所以であるらしい。

その後、居城の坂本に逃げる途中、小栗栖にて、土地の農民の手によって殺された。死亡が推定されるのは、6月13日。本能寺の変後、わずか12日目のことであった。辞世は、「明智軍記」によると、

「順逆無二門、大道徹心源、五十五年夢、覚来帰一元」

なお、このとき妻子と長子十五郎(光慶)も、坂本落城と運命をともにするが、十五郎は、亀山城で病死とも、中川瀬兵衛、高山右近に殺された、とも言われて、詳細は不明。妻は、妻木範の娘。子は二男三女で、長女は荒木村重の嫡子、村安に嫁ぐが、村重謀反のあと、一族の明智秀満に再嫁。次女は信長の甥、津田信澄に嫁す。三女は細川忠興夫人で、のちの細川ガラシャである。



↑文中、「」の字は、上の「臣」の左に、ニスイが付くのが正しい漢字です。