■ 赤松満祐 ■


(1381〜1441)

赤松氏は村上天皇の子具平親王を祖に、則村の代で建武の中興に功をたて播州赤松で赤松氏を名乗り、白旗城を居城とした。

満祐は、永徳元年(1381)、大膳太夫義則の長子として誕生。

応永34年(1427)、父義則が死ぬと、その遺領である播磨守護職を、将軍足利義持が赤松持貞に与えようとしたのに反発して居城にこもったたが、義持は持貞を自殺させて、この時は事なきを得た。

やがて満祐は入京し、入道して性具と号す。和歌・連歌をよく詠み、『新続古今和歌集』にも収録されている。

しかし、次の将軍、義教は将軍家の権力を回復しようとして、 有力守護家の継承問題に口出ししてはその力を弱めたため、 嘉吉元年(1441)6月24日、身の危険を感じた満祐満祐は宴を催し、自邸に招いた義教を誘殺。自領、播磨に戻って反旗を翻した。嘉吉の乱である。

最後の拠城木山城も管領細川持之、山名持豊、赤松貞村らの軍に囲まれ自刃。同年(1441)9月8日、61歳。