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<ピンクのトカゲさま
[東海] 2002/09/13(Fri) 11:49>
>こたつさま
>でも新羅が唐の影響を多大に受けてたという話を聞いて、逆に
>ちょっと納得しました。漫画には「大国に飲み込まれないよう
>毅然とした態度を」って理屈がやたらと出て来ますので、恐らくは
>「唐で赤が流行れば日本でも赤を着る、という風潮はダメ」という
>意味なんでしょう。
新羅としては、苦渋の選択だったと思います。唐と陸続きだったばっかりに
>なるほど〜。藍色の藍でしょうね? ずいぶん紅色とは違う(汗)。
古代の日本人が色盲だったってわけではないですが、赤と青の区別は無かったようです。 英語などだと赤については、××レッドとかかなりありますよね。
それに比べて日本では、紅、緋ぐらいしか赤の区別無いのもそれが影響しているんじゃないかと思います。実際、日本人が同じ色としか識別できない赤色系の色をイギリス人は、区別するというのをテレビ番組で見たことがあります。
「青丹よし奈良の都」の「青丹」なんていうのも、「丹」は、丹塗りの「丹」ですから、日本人の色彩感から来るものなのかもしれません。
>いや、これがまた私には何ともわからんのです(^_^;)。なぜ義家
>と新羅三郎の代になってイキナリ八幡やら新羅なのか。
新羅三郎が元服したという新羅明神がある園城寺は、天台寺門宗の本山です。因みに比叡山延暦寺は、天台山門宗の本山です。
>宇佐八幡神は新羅の神だった:
>http://www.kcn.ne.jp/~tkia/mjf/mjf-51.html#head
>(mansongeのニッポンの民俗学:
>http://www.kcn.ne.jp/~tkia/mjf/index.html#bnより)
>によると、八幡(やはた)の「はた」は「畑作」「旗」「機織」の名付
>となったが、元は加羅(新羅に統一された)から来た「秦氏」の
>「はた」で、秦氏は稲荷信仰の祖でもあり、白山の秦澄和尚も
>その名残だそうです。秦氏の一族辛島氏が八幡神を祀り、663年
>の白村江の戦い以降、辛島から宇佐八幡宮に移り、
>宇佐(うさ)→「すさ」→「スサノオ」になったと。
白村江の戦いでって言うのが、引っかかります。
それと、八幡神とは何かというと、これが解っているようでわかっていない。
一般には、応神が祭神ということになっていますが、神功の新羅征伐は、虚構ですし、これと、新羅―唐連合軍に敗れた白村江を結びつけること自体に疑問を感じます。
また、宇佐の祭祀も辛島氏のほか、大神氏と宇佐氏がいますし、辛島氏のみから八幡神を判断していいものかどうかという問題も残ります。
また、秦氏というのも曲者で秦イログが伏見稲荷と関係しているわけですが、ここでも原初には、賀茂氏の存在が見逃せないところがあります。
>九州の島原の乱などは「花郎」流の稚児(少年)を押し立て青
>年団の執り行う形式の名残で、稚児信仰を日本で太子信仰と
>して広めた最澄の比叡山は秦氏の聖山だとか。(白山には
>稚児信仰が脱落しているとも述べられてます)。
確かに、白山には、稚児信仰のようなものはありませんね。
>こう時間的に見ると、源氏に八幡や新羅という名乗りが登場す
>るのがえらく唐突な印象も受けるのですが(後三年の役=1083年
>ごろの人なもんで)、これがその当時の流行(?)とでも言うか……
>何らかの必要があったって事でしょうかね(^_^;)。(あるいはその
>名乗りで何か得する事があったとか)
新羅が完全に滅亡するのが、935年ですから、その亡命者(当然滅亡以前の政権末期段階、たとえば、新羅大乱(891年)から亡命者はいたであろうが)の子孫というように考えれば、およそ5代後ぐらいになりますね。
因みに「瀧口の武士」が置かれるのが、新羅大乱の2年後の893年です。
<こたつ城主 [関東]
2002/09/13(Fri) 19:31>
>ピンクのトカゲさま
元寇の時もそうでしたが、日本は朝鮮半島に比べれば、長い時間を海に守られて来た国だなぁ、と。
色の話は、日本では草や木の色(緑系と茶系)には名前の種類も多い気がするのですが、原色に近い色に関しては「こんなもんか」ってぐらい少ないですよね。
仰る通り名付けも、赤だと向こうでは「カーマイン」とか「スカーレット」「ワイン」など明らかに違う名前で区別しますし、日本人の感覚で聞くせいか洒落てる感じもするんですが、日本では他の色と組み合わせた名前をつけるだけで、どっちかと言うと、染色などの職業用途上必要だったからという感じがします。一方特徴のある名前……例えば「利休」なんてのは茶系の渋い色ですしね(笑)。
新羅三郎は天台宗のお寺で元服したのですか。大学の先生が「土を掘ると時代の古いものほど下にあるが、山は上の方から密教系、中腹が禅宗系、麓に近い地域に民衆系のお寺が配置されてる」と言ってた事がありました(^_^;)。武家には禅宗が多いのですが、1000年代ではまだ貴族の時代ですものね。
>白村江の戦いでって言うのが、引っかかります。
なるほど。トカゲ様のお話だと、新羅完全滅亡の935年ごろまでは、途中で途切れる期間はあったによ、永続的に人が流れて来る可能性は多かったわけですね。
ただ何かこう……上手く言えないのですが、何らかの宗教や文化をもたらした「人」あるいは「一族」の名は重要でも、「国」や「神の名」となるとどうだろうか、という感じがしてしまうのです。
今でも「バンド式のジョンソンエイドジョンソン社流のバンソウコウ」や「カーネルサンダーソンが広めたケンタッキー流のフライドチキンを営業してる店」が縮まって、「バンドエイド」や「ケンタッキー」になっちゃうじゃないですか(^_^;)。
「畑作」や「機織」は、「今やってる農作業」「今やってる織物」と区別する上で「秦流の農作業=秦作→畑作」「秦流の織り方=秦織→機織」になったのかな、とスンナリ思えますが、例えば黒船がやってきて200年も経った今、突然「キリスト太郎」とか「アメリカ三郎」なんて人が出るもんかなぁ……と(^_^;)。
勿論これは、極めてこんにち的な疑問の持ち方でしょうが、それにしても八幡太郎や新羅三郎はストレートすぎて、何らかの思惑を感じてしまうんです。
例えばこういう直接的な名乗りをする人って今でも居て、羽柴秀吉さんとか(爆)。
こんな事を考えると、大規模に広がった八幡信仰って何だろう、という思いが膨らんで来ます。
>秦氏というのも曲者で秦イログが伏見稲荷と関係しているわけです
>が、ここでも原初には、賀茂氏の存在が見逃せないところがあります。
え〜と、スイマセン(^_^;)。この賀茂には、八幡太郎と新羅三郎兄弟の間に挟まってる「賀茂二朗」も絡みます? また平将門の従兄弟の平良正の家系からも「賀茂」という姓が一時期見られますが……。原初というのは「吉備津彦」(私の知る限り考霊天皇の子という事になってて、最近知った事ですが桃太郎サンだそうで(^^;))から始まった(という事になっている)家系でしょうけど。
あと、スイマセン。「瀧口の武士」って何ですか?
>確かに、白山には、稚児信仰のようなものはありませんね。
提示したHPにはその根拠がハッキリ述べられてませんが、九州では継続的に大陸との往来があったため、一定の習慣が継続できる要素があったのが、白山になるとそうはいかなかったとかいう事かなぁ?
<日雲さま [関東]
2002/09/13(Fri) 23:26>
>八幡(やはた)の「はた」は「畑作」「旗」「機織」の名付となったが〜
これは……如何なモンでしょうか(^^;
何だったかの本で、 「秦氏=織物という見解が広くあるが、冷静に鑑みると、秦氏と織物を直接的に記してある古記録は、記紀に『絹織物を朝廷に献上した』っていうくらいしかないので、もしかしたらこれって、秦氏のハタが『機織』に通ずるっていう『ハタ』つながりの駄洒落から出来た妄想に近いものだったりしないの? っていうことをとある学者さんが書いたら、それから秦氏=織物の見解は学会でめっきり減った」
みたいなことを読みましたが、こっちの方がリアルな気がするです。
庶民レベルの信仰も、駄洒落で十分流通しますからねえ。
『畑=ハタ』と音が通じてたから、一般庶民レベルにも異常に広まった、みたいなことも、或いはあったかも知れません。
ともあれ、秦氏とニギハヤヒはキャラ付けられ過ぎ。
「秦氏マニア」っているからな。
夜間、冷え込んできたので、カメが風邪引かないように心を配っております。
師匠もお風邪召されませんように。
<こたつ城主 [関東]
2002/09/14(Sat) 18:34>
>日雲さま
>『ハタ』つながりの駄洒落から出来た妄想
ふむふむ(゚.゚)。確かに織物を貢いだぐらいで「だから機織の祖」って根拠だったのなら、「んな、アホな!」だわね(笑)。するってーと、八幡神が外来(新羅)神って説もアヤシイのかな? あれだと、秦氏やその一族の辛島氏が祀ってるから「新羅から来た神」となってるもの。そうなると、源氏と新羅の接点も「新羅三郎」だけかな。
>「秦氏マニア」っているからな。
マニアになる根拠(要素?)って何かしら? 『日出る処の天子』の秦氏しか知らないので、「気のいい一族」みたいな印象しかなくて(^^ゞ。
>夜間、冷え込んできたので、カメが風邪引かないように心を配っております。
えっ(*O*)! 日雲さまってカメ飼ってるの?! こたつは最近までカタツムリを飼ってたんだけど居なくなっちゃったんです。寒くなったからかしら?
<ピンクのトカゲさま
[東海] 2002/09/14(Sat) 19:16>
>こたつさま
>新羅三郎は天台宗のお寺で元服したのですか。
新羅明神は、園城寺の守護神で天武と関わりがあると考えられます。
天武は槍の使い手であったようですし、遁甲を能くすると書紀にかかれています。
>なるほど。トカゲ様のお話だと、新羅完全滅亡の935年ごろま
>では、途中で途切れる期間はあったによ、永続的に人が流れ
>て来る可能性は多かったわけですね。
亡命者はかなりいたのではないかと思います。ただ、当時の日本は、新羅憎しですから中央から離れた東国辺りに居を構えたのではないかと睨んでいます。
当然、武人たる花朗もいたでしょうし、それが、東国武士の形成に影響を与えたと
>ただ何かこう……上手く言えないのですが、何らかの宗教や文化
>をもたらした「人」あるいは「一族」の名は重要でも、「国」や「神の名」
>となるとどうだろうか、という感じがしてしまうのです。
こと新羅三郎については、新羅という国名を記していますが、源氏という名そのものと花朗の元締め=源花ということを考えると源氏という名乗り自体も違った見方ができるのではないかと
>「畑作」や「機織」は、「今やってる農作業」「今やってる織物」
>と区別する上で「秦流の農作業=秦作→畑作」「秦流の織り
>方=秦織→機織」になったのかな、とスンナリ思えますが、
>例えば黒船がやってきて200年も経った今、突然「キリスト太郎」
>とか「アメリカ三郎」なんて人が出るもんかなぁ……と(^_^;)。
秦は、一般的に韓国語のPATA=海から来ているといわれています。
八幡の「幡」もそのような解釈もできます。
「キリスト太郎」に「アメリカ三郎」ですか。これより戦前の創始改姓なんかが一つの例になるのではないでしょうか。
光州出身の金だから金光にしたとか
>勿論これは、極めてこんにち的な疑問の持ち方でしょうが、
>それにしても八幡太郎や新羅三郎はストレートすぎて、
>何らかの思惑を感じてしまうんです。
元服とか烏帽子親っていうのは、現代と比べて重要な意味をもっていたでしょうし、その元服を新羅明神の前で行なったというからには、当然、新羅明神と何等かのかかわりをもっていたと考えられます。
>例えばこういう直接的な名乗りをする人って今でも居て、羽柴秀吉
>さんとか(爆)。 こんな事を考えると、大規模に広がった八幡信仰っ
>て何だろう、という思いが膨らんで来ます。
宇佐八幡の日売神というのが、キーワードになると思います。直接的に八幡信仰が広がるのは、国分寺の鎮守として各国に建立されるのが、始まりでその後、道鏡の神託事件なんていうので宇佐八幡が影響をもって着ます。
>え〜と、スイマセン(^_^;)。この賀茂には、八幡太郎と新羅三郎
>兄弟の間に挟まってる「賀茂二朗」も絡みます? また平将門
>の従兄弟の平良正の家系からも「賀茂」という姓が一時期見ら
>れますが……。原初というのは「吉備津彦」(私の知る限り
>考霊天皇の子という事になってて、最近知った事ですが桃太郎
>サンだそうで(^^;))から始まった(という事になっている)家系
>でしょうけど。
賀茂二郎っていうのもいましたね。三上とか石橋の祖になる人でしたね。意外と影が薄い
賀茂氏と秦氏がどうも絡んでいるように思えるんです。まだ根拠は無いんですが
松平家なんかも賀茂氏って言われていますよね。
あと、吉備津彦というか吉備氏っていうのもどうも記紀の記載を額面どおりに受け取れない気がします。
桃太郎の鬼の方は、温羅(ウラ)とかいわれていますが、これももう少し検討していいのではと思います。
>あと、スイマセン。「瀧口の武士」って何ですか?
瀧口の武士とは、宇多天皇が宮中の警護に当たらせるためおいたもので詰所が清涼殿北の瀧口付近にあったことからそう呼ばれました。武士の起源とでも言えるのではないかと思います。
<日雲さま [関東]
2002/09/14(Sat) 20:52>
>するってーと、八幡神が外来(新羅)神って説もアヤシイのかな?
>いや、それは別に怪しくないと思いまス。八幡信仰といえば、
>まず宇佐ですが、これはピンクの万能様(はじめまして)が、
>
>宇佐の祭祀も辛島氏のほか、大神氏と宇佐氏がいます
と申されておられますとおり、少なくとも三つの流れが重なって成立してるんですね。
大雑把に言うと、宇佐土着とされる宇佐氏、渡来系とされる辛島氏、大和朝廷系とされる大神氏、みたいな感じでしょうか、あえて単純化すれば。
実際は、もっとそれぞれにコマゴマと複雑な事情があるようなんですけどね。例えば、土着ったって、狭〜い中でチンマリと閉鎖的に同族だけで生きてた訳じゃないですから、辛島氏や大神氏から見て(或いはそれらと比較して)土着的ってだけで、これ自体がすでに一筋縄でイカンですし。なので、
>辛島氏のみから八幡神を判断していいものかどうかという問題も残ります。
と万能トカゲ様がおっしゃられている通りなんです。
八幡信仰というのは、宇佐八幡だけとっても、和音状態で成り立ってるもんなんですね。それを辛島氏の観点からだけ見ると、あまりにも取りこぼしが多く出る、秦氏だけで解釈しようとすると、かなり無理が出てくる、ってことで。
>「秦氏マニア」っているからな
>マニアになる根拠(要素?)って何かしら?
これは要するに、何か謎が多いからです。得体が知れんというか。
そういうものって、色々掻き立てられましょう?
で、そん中でも最大のマニアネタは、秦氏が朝鮮半島経由で流入してきたユダヤ人だってヤツです。聞いたことありません?
この観点で、熱狂的に秦氏を好む人達がおるんです。秦氏をほとんど、『日本のフリーンメーソン』みたいな見方すらしていて、もう、どっかに『ハタ』という音が出てきたが最後、これは絶対秦氏つながり! 秦氏と関係なきゃイヤッ! っていうくらい入れ込んでらっしゃる方が多いです。これもハタ、あれもハタ、多分ハタ、きっとハタ、みたいな勢いで。
神道の祭祀と古代イスラエルの祭祀を比べた本なんかを読むと、これは確かに似とるなあ、っていう部分が少なからずあるので、別に日本に来ててもいいんですけどね。けど、それを秦氏に求めて本当にいいの? っていう冷静な視点があんまりないんですね、そっちの研究は(研究っていうのか?)。
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